ロシア農奴解放の歴史的意義について

有馬 達郎
1996.3.24

帝政ロシアでは一八六一年、つまりわが国の明治維新とほぼ同じ時期に農奴解放が実施されるが、本日の報告では、ロシア近代化の諸課題を解決するにあたって、この変革がどのような歴史的役割を果たしたのか、という問題に重点がおかれる。一般に後進国の近代化にとって主軸的推進的役割を果たすのは工業化であるが、資本主義の生成発展の歴史に則して考えれば、資本主義確立の画期である産業革命が、ロシアではどのように遂行されたのか(あるいは、遂行されなかったのか)という問題にかかわる。

農奴解放以前のロシアは、領主と領主に人身的に隷属する農奴によって構成される階級社会であった。こうした特異な農奴制社会の内部でも先進諸国とりわけイギリスのインパクトのなかで、綿工業を中心に工業が一定の発展をとげたが、他方、農奴制ロシアが西ヨーロッパの先進諸国を相手として戦ったクリミア戦争は、一八五六年にロシアの決定的な敗北に終わった。

こうした国内的国際的条件のなかで実施された農奴解放は、ブルジョア的改革としてはきわめて不徹底なものであり、ツァーリ専制が当面の危機を克服するための最小限の譲歩でしかなかった。農村では共同体が温存され低生産力の三圃制農業がつづけられた。領主の恣意的な分与地切取と過重な買戻金支払いのために、農民は恒常的な出稼ぎを余儀なくされた。

農奴解放後も共同体に緊縛され土地不足に苦しむ農民たちは、都市へ工業出稼ぎに出かけても、通常、農作業が繁忙となる夏の二〜三ヵ月間は帰村するため、高度な固定資本装備をもつ工場は、さまざまな経済的・経済外的帰村抑止策を講じたが、都市への工場労働者の定着は遅々として進まなかった。一部の出稼ぎ農民は夏期帰村を断念して、通念労働者に転化したが、それは必ずしも、出身農村の共同体や農地経営からの断絶を意味するものではなかった。出稼ぎ農民は都市では主として工場寄宿舎に住居し、郷里へ仕送りを続けたが、恐慌・不況期に失業したとき、疾病・労災のために労働能力を失ったとき、そして多くの場合、高齢化した父に代わって農業経営のあとを継ぐとき、彼は故郷の村に戻った。

農民=労働者は極端な低賃金のために、結婚しても家族を扶養することが困難であり夫婦ともに工場で働いた。産児は郷里の共同体で養育され、労働者としての能力を備えるほどに成長すると、都市へ呼び寄せられて両親とともに工場労働に従事した。つまり、共同体のもつ擬制的血縁の紐帯と相互扶助機能が、農村と都市の間の農民=労働者の還流を可能にしたのである。

農村共同体を基盤として再生産される農民=労働者の労働生産性は著しく低かった。このため、ロシアは、工業化のために必要な原料・機械等を輸入に依存しながら、工業製品の輸出市場をほとんど確保することができなかった。

ロシアよりもはるかに遅れて工業化を開始しながら、一九世紀末〜二〇世紀初頭に瞠目すべき発展をとげたわが国と比較するとき、ロシア農奴解放のブルジョア的変革としての不徹底さが、今さらながら浮き彫りにされるであろう。


第6号目次