阪大での一年を振り返って

佐藤 貴保

私が新潟大学人文学部東洋文化履修コースを卒業し、大阪大学大学院文学研究科の博士前期(修士)課程に籍をおくようになって、はや一年になろうとしている。この一年、私は大阪の地で学問、生活などあらゆる面で様々な事を体験し、また色々と考えるところがあった。読者の皆様には甚だつまらぬ内容かと存ずるが、ここで私なりに一年間を振り返り、今思っていることを書き記したいと思う。

私の下宿は大阪「キタ」の中心-梅田(JR大阪駅がある所)から阪急宝塚線で北へ二十分弱の駅前商店街の近くにあり、大阪大学はさらに十五分ほど歩いた山の上にある。私が越してきた頃の宝塚線沿線は、阪神・淡路大震災により至る所にひびの入った建物や青いビニールシートをかぶった屋根が見受けられたが、今では大分目立たなくなった。我が下宿も地震から一年半たってやっと剥がれ落ちた外壁が直った。しかし、同じ阪急の神戸線沿線になると、今も更地の広がっているところが見受けられる。地震からは二年経ったが震災はまだ続いているのである。

北海道生まれの私にとって、新潟へ来たときでも生活環境の違いに戸惑ったのに、関西に行くのはまるで初めて外国へ行くような感じがして少々不安があった(逆に関西人に言わせれば、北海道は外国である)。その不安は以下のような言語学的、文化的、自然科学的、など様々な側面での違いを目のあたりにするや現実のものとなった。

まずことばが違う。八百屋へ行っておばさんの話を聞いてても、何を言っているのか理解できない。食文化も異なる。「ナンキン」がかぼちゃのことで、「天ぷら」が薩摩揚げのことであることにはしばらく気付かなかった。水は非常にまずく、夏場は到底飲めない。生まれて初めて海の見えないところに住んで、まわりが建物だらけなのにもうっとうしさを覚えた。それ故北は佐渡と日本海に五十嵐砂漠、南は延々と続く田圃、西ははるか弥彦山を望む、という新大周辺の景色が懐かしくなる。

何より辛いのが気候の違いである。大阪は内陸のように寒暖の差が激しい。夏は熱帯夜が続き、我が家は夜になっても四〇度を超える。北国育ちの私にはクーラーなしでは眠ることもできない。おかげでこの夏は大いに体調を崩した。ゴキブリは元気良く部屋じゅうを走り回っているのに・・・。冬は新潟のような強烈な季節風や、うっとうしい曇天はないものの、朝晩の冷込みは新潟並みに厳しい、いや暖房が完備されていない分、大阪の方が寒く感じる。そのほか、大阪じゅうがO一五七で大騒ぎする中自炊生活をはじめたりと、私の生活は新潟時代とは大分様変わりしていった。

前置きが長くなったが、ここからは阪大での院生生活についてお話する。私の在籍している阪大東洋史学研究室は新大の東洋合研の四倍の広さを持ち(但し院生専用の研究室はない)、所属する学生(阪大はゼミ単位の所属ではない)はおよそ五十名にのぼる。中国文学や哲学は学科が別なため、これら学生との交流は新大と比べれば希薄だ。

しかし、阪大東洋史の学習環境の良さは正直言って新大の比ではない。研究室には工具書はもとより、研究書も大量に配架されており、きちんと整理されている。新大では皆無に等しい正史の標點本もここでは研究室に完備されている。しかも院生であればこれらの書物がどんな内容で、何に有用かは皆理解している。私は、それらの書物の使い方はおろか、存在すら知らなかったものも多かったから、こんなに便利なものがあるのか、とまず驚嘆したものである。

図書館も新大のそれに比べると六倍の蔵書を持ち、漢籍も自由に借り出せる。かりに阪大に無い書物でも京阪神地区の大学へ簡単に行けるから、文献の収集にはさほど苦労しない。歴史学は先行研究の整理と、何よりも史料がなければ成り立たない。それらの収集が非常に容易であるという環境の良さが、阪大生の学習意欲及び研究レベルの向上に大きく貢献していると思う。新潟と東京を命懸けで何度も往復して論文を集め、大学に無い史料を自費で買っていた私にはそれが羨ましく思える。ただ、ここでは「ウチの大学にはないので・・・」などという甘えは通用しないし、知っておかねばならない常識もたくさん存在する。

常識といえば、私は阪大にきて東洋史の常識とも言うべき基礎知識を学部においてほとんど習得していないことを思い知らされた。自分の専攻分野にもかかわらずお恥ずかしいことなのだが、内陸アジア史には大量の重要な欧文の研究書が存在することを知り、新大で習得した中国語はほとんど役に立たず、いわば「木に縁りて魚を求むる」のごときアプローチであったと知って私はショックを受けた。そんなことを知らずによくも卒論を書いて院生になれたものだと、我ながら自分にあきれてしまったことしばしばである。いま私は自己の専攻分野における優れた先行研究を理解すべく、ロシア語の学習にいそしむ毎日だが、一日半ページ論文を読み進めればましなほうで、先が思いやられる。

かかる常識の欠如は私の聴講している講義の中で次々と暴露された。阪大東洋史には中国明清史、中央アジア史、東南アジア史を専門分野とされる教官があわせて五名いらっしゃる。したがって、新大の東洋史の教官が守備範囲とされる地域、時代とは必ずしもかみ合わない。ということは、講義の内容も当然違ってくるのであり、阪大東洋史に入りこんだ私は、明清史や東南アジア史の講義を基礎から学んで吸収することになるのだが、専門的な内容ならともかく、基礎的なものまで皆新鮮な内容に感じるのである。大学院入試でその辺りの知識は当然問われるのだからとっくに概説書を読んで知っていて当然なのだが、私は学部時代にそれすら怠っていたので、今になってもその常識が新鮮なものとして感じられる、というわけだ。誠に困った院生である。

このような貧しい予備知識しか持っていないからこれがゼミになると、悲惨とも言うべき様相を呈する。ゼミは日曜を除く毎日あり、内容は学部向け、院生向けを問わず、どれもハードである。漢文演習の他に洋書講読のゼミ(英・独・仏語など)が学部の時からある(内陸アジア史のゼミでは後者が主流)。中国語の習得に重きを置く新大とは対照的であるうえ、私は学部の教養以来大学院入試の直前まで、横文字に目を触れることはほとんど無かったから、けっこうしんどい。学部の時にもっとやっておけばよかったと後悔している。漢文とてろくに読めない私であるから、ゼミの準備だけでもかなりの時間を要するし、準備ができたとしてもわけのわからぬ発表になったり、質問に答えられなかったり・・・。まともな発表をした覚えが無い。斯様な惨状であるが故、自分の研究活動に取り組める余地はほとんど無い。それよりも既に持っているべき東洋史の基礎知識を吸収せんとするだけで精一杯のまま、一年が過ぎようとしている。

私は新大で人並み以上に勉強してきたつもりであったが、阪大に来てそれが全くの自惚れであり、怠慢な学生であることを以上のことから悟らされた。その衝撃は文字ではうまく表現できないのだが、黒船を初めて見た時の幕末の日本人のようだ、とでも形容すればよいのだろうか、とにかくこの一年間受けてきた学問的刺激は、むしろ学問的ショックというのが妥当なくらいに大きなものであった。

なぜ今までそんなことに気付かなかったのかを折りにふれて考えてみたのだが、理由は簡単なことで、自分が学問の世界の中でどこにいるのか、という座標軸が今まで見えていなかったからであろう。新大にいた時は自分と近い時期や場所を研究している学友がいなかったから、さも自分の研究が進んでいるように思えた。しかし、そこを離れて自分と近いところを研究している人達の中に身を置いてみて初めて、自分が今までやってきたことがどういう意味を持っているのか、自分に何が欠けているのか、そしてこれから何をなすべきなのかを客観的に把握できたように思う。

外へ飛び出してみて初めて自分のちっぽけさに気付く。こんなことは読者の皆さんであれば部活動の大会や留学、あるいは社会活動など、あらゆるところで経験されていることと思う。どうやら同じようなことが学問の世界においても言えそうである。学問は決して独りでするものではなく、たくさんの研究者の方々と情報や意見を交換することによって進展するものなのであろう。外の世界にも広く目配りしなければ大きな流れからとり残されてしまいかねないのである。新大生諸君も是非外部の研究会などに出席したり、お金のある人は外国留学などをして外の世界を見てほしい。必ずや学問の世界の広さを感じて、今後の研究の糧となるであろう。

この一年間、私は学問的にも精神的にも衝撃的なまでにたくさんのことを学ばせていただいた。にもかかわらず一年を乗り切れそうなところまで辿り着けたのは、ひとえに私を送り出してくれた新大の皆様方、そして一年間指導して下さった阪大の皆様方の御助力のお陰である。両大学の皆様に心より感謝するとともに、前途は益々多難となるであろうが、この私にとって大きくて広い世界の中で、今後とも自己の研究活動を進め、多くのことを学んでいきたいと思っている。


第6号目次