西嶋先生の思い出

大隅 晃弘

私が新潟大学人文学部文化課程(現地域文化)に入学したのは一九八〇年の春のことだった。この年、従来あった法文学部は人文・経済・法の三学部に改組され、伝統あった史学科の名称はなくなってしまった。歴史を専攻したいと思っていた私にとっては不安をもっての入学だった。しかし、学部改組によって教授陣はかえって増員され大変充実していたように思う。そこに講座最大の目玉として招聘されたのが東京大学を退官されたばかりの西嶋定生先生だった。

ところで当時は一・二年生は教養部が中心で学部の講義を聴くことができなかった。非常にもったいない話だが、西嶋先生の講義を最初に聴いたのは私が三年生となって学部にあがった一九八二年のことである。今、ここにそのときの「東アジア文化圏論」の講義ノートがある。四月二一日づけの色あせたページをめくると、西嶋先生の口調までが鮮明によみがえってくるようで不思議だ。

この日西嶋先生は講義の冒頭、「世界史とは世界が一体化する過程である」と世界史とは何かという定義から入られ、次に「資本主義成立以前の前近代では世界は一つではなくそれぞれの地域にそれそれ独自の文化をもつ文化圏を形成し、いわば世界は複数存在した」と述べ、その上で「東アジア文化圏」とは何かという命題にはいられた。その間わずか五分程度、早口ではあったが、非常に明晰な語り方だった。おおげさに聞こえるかも知れないが、そのとき私は本当に涙ぐんでしまった。今思えば、先生としては自明のこととしてお話になったのだと思うが、いわゆる「ものしり」(?)なだけの歴史オタクの少年が、はじめて歴史を体系的・構造的に解明する理論に出会って感動したのだ。

そしてその晩、旧史学科の歴史系ゼミナール協議会(歴ゼミ協)の新入生歓迎コンパがあった。その席上で私は西嶋先生に今日の講義の感動をたいそう興奮して語り、「弟子入り」を誓ったという。「という」というのは恥ずかしい話だが私はその後酔いつぶれるという醜態をさらしてしまったのである。

さてそのようにして私は東洋文化(現アジア文化)の西嶋ゼミにはいることになったのだが、今、思えば贅沢な学生時代をおくったものだと思う。

当時の東洋文化の教授陣は旧法文時代の教授は中国近代史の古厩忠夫先生だけで、筑波大学から漢文学の横山伊勢雄先生(故人)、アジア経済研究所から中国語学の清水登先生(故人)、朝鮮近代史で新進気鋭の糟谷憲一先生(現一橋大学)、そして東京大学から中国古代史の西嶋定生先生というそうそうたる顔ぶれである。この教授5名に対して、東洋文化の一期生は七人だった。私たちは東洋文化の合同研究室に、東洋文化研究という名目で中華鍋をそろえていろいろな料理をつくった。中国人留学生じこみの餃子やら、誰がいったか楊貴妃の好物(?)「手羽焼き」料理、果ては山形名物「芋煮」まで、夜遅くまで教授も学生も楽しく酒を酌み交わすことたびたびであった。もちろん西嶋先生もこの「料理コンパ」を楽しみにしてくださった。私はこの酒席で先生方からさまざまご教示いただいたことが非常に多かったような気がする。

こう書くと酒ばかり飲んでいたような印象になるが、西嶋ゼミそのものは演習は非常にハードであった。西嶋先生は二週間に一度、千葉は我孫子のお宅から通ってくるのだが、ほぼ一日がかりで二回分のゼミが行われた。内容は漢書・後漢書の講読だった。ゼミ員が3人しかいなかったので、毎日諸橋大漢和と首っ引きになって「大漢和の奴隷」といわれた。この他、毎回誰か一名が学説史上の基本文献を読んで要約し、問題点を指摘するという課題が与えられた。昨年九月東京神田で行われた「西嶋先生を追悼する集い」に私も参列したが、そこで東西を代表する東洋史家が次々と先生の思い出を語った。そのほとんどの方が私が西嶋ゼミで読んだ研究者で、その追悼の内容とともに感慨深いものであった。

西嶋先生が私たちにまるで伝説を語るように聴かせてくれた話がある。

第二次世界大戦中、東京大学の東洋史研究室に前田直典という人物がいた。彼は結核を患いながらも研究に没頭し西嶋先生たち後輩を指導していた。西嶋先生曰く「プライベートプロフェッサー」のような存在だった。西嶋先生たちはよく前田氏の下宿に集まっては夜が更けるのも忘れて議論に熱中したという。戦争が終わり、前田氏がいよいよ学界で活躍を始めた昭和二三年ついに病魔に倒れ、その後の闘病生活も空しく帰らぬ人なった。その前田氏の遺稿が「東アジアにおける古代の終末」という論文である。この論文はわずか三〇ページにも満たないものであるが、次の二点において画期的なものであった。第一に、東アジアの歴史は一体であって中国を中心として相互に関連しながら独自の世界を形成したとする点。第二に、東アジアにおける古代社会の終末を唐末に設定した点である。不幸にして前田氏は具体的な論証に入る前に夭折したが、戦後前田氏の論説を継承したのが西嶋先生をはじめとする東京学派である。中国史の時代区分をめぐる東京学派と京都学派との間の華々しい論戦は有名であるが、西嶋先生はつねに論戦の中心となって戦後日本の東洋史学界をリードした。

西嶋先生の主な業績について述べることは私の能力をはるかに超えているが、前期の代表的業績を「二十等爵制の研究」による中国古代帝国の個別人身支配の確立に関する研究であるとすると、後期のそれは中国を中心とした東アジアの国際秩序を分析した「册封体制論」であろう。後者は、中国古代帝国の君臣の秩序を周辺諸国にも擬制的に適用するという点において前者の延長線上にある。先生の晩年にあたる新潟大学時代は、さらに「册封体制論」を発展させ、中国古代王朝が周辺諸国を册封する(中国の臣下とする)ことによって、漢字をはじめとする文化が伝播する過程を実証し、東アジア文化圏の形成を構造的に解明することに力が注がれている。一九八二年から一九八五年までの「東アジア文化圏論」の講義ノートに再び目を通して見ると、中国古代史や朝鮮古代史の問題とともに「漢委奴国王金印」「三角縁神獣鏡」「広開土王碑文」「倭王武の上表文」「遣唐使」など日本古代史や考古学上の問題も広く取り上げている。新潟大時代の西嶋先生は、もはや東洋史という領域を越えて、日本古代史にもその明晰な分析力をふるわれている。

このような講義の影響か、四年生になって私は「聖徳太子の外交」を卒論にとりあげたいと言い出した。それを西嶋先生は「日本史の人にまかせるべきだ」とたしなめられ、「渤海史をやらんか」と勧められた。今でこそ渤海史はブームのごとき様子であるが、当時は国内には数人の研究者しかいなかった。何故ならば、渤海は契丹によって徹底的に攻め滅ぼされたためほとんど自国の文献資料を遺さなかったし、中国の文献にもまた五代の争乱にあってみるべきものがほとんどなかったからである。そこで私が「何故渤海ですか」と聞くと「君は第一回目の渤海の使節が君の郷里に漂着したのをしらんのか」といたずらっぽくおっしゃった。なるほど渤海は奈良時代から平安時代にかけて日本に三四回の使節を派遣しているが、その一回目は出羽の国府に漂着している。それは確かに私の郷里から目と鼻の先である。しかし西嶋先生の真意は別にあった。

もう一度、前田氏の所説にもどると氏は唐末をもって古代の終末とした。西嶋先生は、その論拠として一〇世紀、唐が滅亡した後、その後を追うように新羅や渤海が滅亡し、日本は国風文化へと変わったことをあげている。しかし、その具体的な論証は未だ行われていなかった。それを私にやれというわけである。前述の通り資料の制約には非常に苦しんだが、私は日本の渤海使の資料に見える「首領」に着目して、なんとか唐と渤海国家の成立を構造的に関連づけた。この論文を西嶋先生はとても喜んでくれた。

西嶋先生が私たちにつねに求めたのは膨大な先人の業績を継承しつつも、それを批判し乗り越え、発展させよということだったと思う。私は西嶋先生から物事を構造的・体系的にとらえることの重要性を教えていただいたような気がする。その構造的な分析の方法が、文化人類学のレヴィストロースに似ていたので私はひそかに「東洋史のレヴィストロース」と呼んでいたが、そんな話を聞いたら西嶋先生はどう思われただろう。もはやそれもかなわなくなってしまった。

もうここで与えられた字数もなくなってしまった。編集子からは「楽しい思い出話」と言われたのだが、「楽しい思い出」はまだまだたくさんある。西嶋先生と粟島に行ったときの話、私が我孫子にある先生のお宅にお邪魔したときの話など、もう書きしるす余白がないのが本当に残念である。いつか機会があれば、新潟大学時代の西嶋先生を知る人たちと尽きない先生の思い出話をしてみたいと切に願う。

西嶋先生はきっと天国で、横山先生や清水先生と酒を酌み交わして、下界の私たちを笑って見ていてくださることだろう。


第8号目次