楽書巻第八

礼記訓義

楽記(008-01)

凡音之起.由人心生也.人心之動物使之然也.感於物而動.故形於聲.聲相應.故生變.變成方謂之音.比音而樂之.及干戚羽旄.謂之樂.

礼は人の外側から作用するものであり「動」。楽は人間の内側から生起するものであり「静」。「虚一にして静」なるものは人の心であろう。つまり,音の発生は,人の心によって起こるということになる。(註1)

人心が「静」の状態を離れて「動」になる仕組みとして,心それ自身を根拠としてそのようになることがあるだろうか。心を誘引する物があるのだ。もし〔心とは無関係に物に感動した場合は,「動いた」といってもそれは「静」と同じである。〕心を通して物に感動した場合,〔心に「静」の状態はなく,しかも「動」というわけでもない。「静」の状態はなく「動」でもないので,物が動かすことができるのだ。〕心の感動が「声」として現れないでおれようか。かならず「声」になる。(註2)

「声」となって現れるので,宮を鳴らせば宮が動き,角を鳴らせば角が反応する。これは同じものが感応するのである。羽を鳴らせば角が反応し,宮を鳴らせば徴が反応する。これは異なるものが感応するのである。同じものが感応する場合は,いっぽうが唱えばいっぽうが和し,かならず定まった規則がある。異なるものが感応する場合は,「あまねく行きわたり変化し続け,固定した音に支配されることがない」(註3)
という状態になる。このようなわけで,定まった規則がありながら,なおかつ変化を生じるのである。
しかし,心が動いて〔心ではなく〕声を生じ,声が動いて〔声ではなく〕音を生じるというだけでは,楽については,まだ説明されていない。(註4)
音を並べてこれを楽曲にし,干戚を使う武舞を用いて動作をつけ,羽旄を使う文舞で装飾を施す。このようにして本と末が備わり楽が完成する。これが「声音に発し,動静にあらわれ,もって性術の変を尽くすあり」ということではないだろうか。(註5)

以上のことから,次のように言えるのだ。楽は心の動きであり,声は楽の象であり,文采節奏は声を整える飾りであり,羽籥干戚は楽を載せる器である。君子はその根本(心)を感動させてその象(声)を楽しみ,その後,装飾を整えて羽籥干戚を用いる。(註6)
つまり経文の「およそ音の起こるは人心によりて生ず」とはその「本」であり,「声にあらわれて変を生ず」とはその「象」であり,「変が方を成す」とは「飾り」であり,「音をならべてこれを楽とし,干戚羽旄におよぼす」とは「器」である。以上の四者が備わること,これが楽の成立する条件である。

『周官』には,大司楽の官が五声にもとづいて八音を作り,八音にもとづいて六舞を作り,このようにして音楽が完成するとされている。これは,楽に舞が備わってはじめて完成するということにほかならない。
〔舜は舞を作って諸侯を賞したが,「その舞を観ればその徳が知られる」と言った。孔子は楽のことを顔回に説いて「楽といえば韶舞だろう」と言った。これらのことから舞の重要性が知られよう。〕(註7)

ここの経文に「変の方を成すをこれ音と謂ふ」といい,別の部分では「声の文を成すをこれ音と謂ふ」(楽本章の下文)とあるのはどういうことだろう。
〔「方」には東西南北の場所の区別があり,多様な声が規則性を持てないのとは違う。〕「倡和に応あり,回邪曲直おのおのその分に帰す。(主唱者の声の姦正の別が従唱者の気の逆順に感応し,逆気と順気の区別が淫楽と和楽の違いとなる。)」(楽記,楽象章の句)というのが,声の多様性(変)が(方)規則を持つしくみを言ったものだ。
〔「文」には青黄赤黒の色彩の区別があり,さまざまな声が入り混じって規則性を持てないのとは違う。〕「物をならべて以て節を飾り,節奏あわさって以て文を成す(八種の楽器で音楽を装飾し,テンポとリズムを与えて文采を成す)」(楽記,楽化章の句)というのが,声が装飾(文)として完成するしくみを言ったものだ。(註8)
「変の方を成す」とは声が音楽に変化する段階であり,音のはじめである。「声の文を成す」とは政治的意味を含むもので,音の最終段階である。経文にも「楽を審らかにしてもって政を知り,治道備はる。」(下文)とあるではないか。

「およそ音の起こるは人心に由りて生ず」と言い,「声」について省略して触れないのはこういうわけだ。音の発生は声により,声の発生は心により,声と音がそろって音楽となる。したがって「音の起こるは人心に由りて生ず」とだけ言えば,「声」については,言わなくてもあきらかである。


訳註

  1. 「礼は人の外側から作用する....」は楽記の別の箇所による。
    「楽は人間の内側から生起し,礼は人の外側から作用する。楽は人間の内側から起こるので静。礼は人の外側から作用するので文。」(楽論章)

  2. この部分はわかりにくいが,『礼記集説』(巻九十一)に「長楽陳氏曰」として引用されたものには〔 〕の部分がない。かえって通じる。

  3. 「あまねく行きわたり....」は,原文は「行流散徙,不主故常」。『莊子』天運篇の「変化斉一にして,故常を主とせず」(音色はさまざまに変化しながらも統一があり,古い定型にとらわれない。)「行流散徙し,常声を主とせず」(音色が自由に広がり,固定した音に縛られることがない。)の二句による。

  4. 『礼記集説』(巻九十一)の引用には「心ではなく」「声ではなく」の二句がない。通じる。

  5. 「声音に発し,動静にあらわれ....」は,楽記の別の箇所に見える次の文にもとづいている。
    「楽必発於声音,形於動静,人之道也。声音動静,性術之変,尽於此矣。」(楽記・楽化章)

  6. この一節は,楽記の別の箇所に見える次の文にもとづいている。 「楽者,心之動也。聲者,楽之象也。文采節奏,聲之飾也。君子動其本,楽其象,然後治其飾。」(楽記・楽象章)
    「故鐘鼓管磬,羽籥干戚,楽之器也。」(楽記・楽論章)

  7. 「『周官』には....音楽が完成する」は『周礼』「春官」の大司楽の条による。
    「舜は....その徳が知られる」は,『礼記』楽記の別の箇所(楽施章)にある。
    「舜は....」以下「重要性が知られよう」まで,『礼記集説』(巻九十一)の引用する「長楽陳氏曰」にはない。

  8. この一段,難解である。二箇所の〔 〕の句は『礼記集説』(巻九十一)の引用にはない。かえって通じる。


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kodama noriaki
faculty of humanities, niigata university

1999.5.8-1999.7.10