楽書巻第八

礼記訓義

楽記(008-02)

楽者.音之所由生也.其本在人心之感於物也.是故其哀心感者.其声◆以殺.其楽心感者.其声◆以緩.其喜心感者.其声発以散.其怒心感者.其声粗以◆.其敬心感者.其声直以廉.其愛心感者.其声和以柔.六者非性也.感於物而后動.是故先王慎所以感之者.

楽は空虚から発生し,かならず音をかりて現象となる。音は心に生じ,かならず外物に感じて動く。これが経文の「楽は音の由りて生ずる所なり。そのもとは人の心の物に感ずるに在り」ということだ。

そもそも,心が「静」であれば,万物はこれをかき乱すことができない。それが性・情が成立する根拠となる。動きが制御されて「静」の状態を保っていれば,喜怒哀楽がいまだきざすことがなく,「中」の状態にある。これがつまり「性」だ。君子はこれを「情」とは見なさない。
心が「静」の状態を離れて動きをもつと,喜怒哀楽が節度を保ち「和」の状態となる。これが「情」だ。君子はこれを「性」とは見なさない。それはなぜか。
人は,天地・陰陽・五行の気を内に含んでおり,〔気がさまざまに変化するように〕心にも哀楽喜怒敬愛という六つの異なる心の状態がある。だから,心は情によってさまざまに異なった相をとり,声も心の六つの状態に応じてさまざまなものとなるのだ。

音楽を聞いて悲哀の心が反応した者は,最初は悲しみの感情を持っていなかったというわけではない。最初から悲しみの感情があったので,その声が,かすれて弱々しいものとなるのだ。
楽しい心が反応した者は,ゆったりとした感情があったので,その声が,豊かでゆったりしたものとなるのだ。
喜びの心が反応した者は,陽気に片寄っていたので,その声は広がって遠くまで届くのだ。
怒りの心が反応した者は,陰気に片寄っていたので,その声は荒々しく鋭いのだ。
敬う心が反応した者は,内面がまっすぐで外面もきちんとしていたので,その声は端正なものとなるのだ。
慈愛の心が反応した者は,内面がすなおで外面もやわらかかったので,その声は優しくやわらかいものとなるのだ。

だから,「志微◆殺の音おこりて民は憂思」(註1)というのは,悲哀の心が反応してそうなっているのだ。「◆諧易簡の音おこりて民は康楽」というのは,楽しい心が反応してそうなっているのだ。「流散滌濫の音おこりて民は淫乱」というのは,喜びの心が反応してそうなっているのだ。「粗◆猛起の音おこりて民は剛毅」というのは,怒りの心が反応してそうなっているのだ。「廉直莊誠の音おこりて民は粛敬」というのは,敬う心が反応してそうなっているのだ。「寛裕順和の音作りて民は慈愛」というのは,慈愛の心が反応してそうなっているのだ。
これらの六つは,「性」の本来の姿ではない。外物に感応して心が動いているのであり,「情」にほかならない。

このような「情」というものは,それを動かす原因を慎重に扱い,人の心の根本原理を把握し,上述の六つの異なる感情の反応のしくみを理解し,「邪悪な音が聡明な精神に停留したり,淫猥な音楽が心に触れたりしないようにし」(楽象章),「生気の調和に合致し五行の循環に従うようにし,陽気も発散しすぎず,陰気も収斂しすぎないようにし,剛気も怒らず柔気も怖じ気付くことのないようにし,それぞれを本来のありかたを保ち損なうことのないようにする」(楽言章)ことができるなら,正しい人はみずからの「誠」の助けとすることができ,邪悪な人はみずからの過ちを防ぐことができ,政道はよくおこなわれるのである。
ところが「情」を動かす原因を慎重にすることを怠るなら,「悖逆詐偽の心や淫佚作乱の事が起こり,強者は弱者を脅し,多数は少数を傷つけ,知者は愚者を欺き,勇者は怯者を苦しめ」(楽本章),「人欲を窮めて天理を失う」ことになる。そのようであるなら「君子は善を好み,小人は過ちを聞き入れ」(楽象章),「風俗を改善して天下が安定する」(楽象章)ことを期待しても,むりであろう。

ここに「哀楽喜怒敬愛」と言うのは外物に感応する順序である。「禮運」篇に「喜怒哀懼愛悪欲」というのは自然の順序である。


訳註

  1. 「民は憂思」。『礼記集説』(巻九十一)の「長楽陳氏曰」は「民思憂」に作る。清刊本は「民憂思」,四庫全書本は「民思憂」。なお,この部分は楽記の別の箇所(楽言章)にもとづくが,楽記の原文は「民思憂」である。


index

kodama noriaki
faculty of humanities, niigata university

1999.6.4-1999.6-6