新潟大学人文学部

中国における日本語借用語受容過程について
−清末期に日本で中国人によって発刊された雑誌の検討を主として−

近藤 秀和(新潟大学人文学部)

日中両言語における語彙交流は、世界的にも類をみない長い歴史を誇っている。しかし、日本は古来、ずっと大陸文化の影響下に置かれており、日中両国間の語彙交流は交流とは言うものの千年以上にわたって中国から日本へ輸出するという一方通行的な形で行われていたものであった。しかし日清戦争が勃発し、中国が日本に敗戦すると、中国の近代化の模範としての日本の地位は急上昇した。中国人の日本留学が一大潮流となり、それに伴って留日学生を中心とする日本書の翻訳が盛んになると、日本語の語彙が中国語に大量に移入される「逆流」の現象が起こるに至った。このようにして、中国における日本語借用語はその影響力を増していくことになったのである。日本語借用語は清朝末期から民国初期にかけて賛否両論を含みながらも多くの中国人に歓迎され、その風潮に伴って大量の日本語借用語が中国語に受容され定着した。しかし、それらがほぼ完全に中国語に吸収されたことで、その来源に対する意識は希薄化し、加えて五四運動などに端を発する排日機運が高まったことで意識的にその来源が無視されたこと等によってその存在は次第に忘却されていくことになり、現在に至ったということができる。

本論では、日清戦争後に中国の知識人・留学生らによって出版された新聞・雑誌の文中に施された訳注をまとめることによって、同時期における日本語借用語の中国語文への流入状況の認識を試みた。ここでは日本で初めて中国人(梁啓超)によって発刊された近代的新聞である『清議報』、留日学生によって発刊された最初の雑誌である『訳書彙編』、留日学生の同郷会が主体となって発刊した雑誌の中でも、最も初期のもので学術的性格が強い『遊学訳編』等の日本において中国人知識人・留学生によって発刊された性質の異なる新聞・雑誌から訳注を抽出し、それらについて考察を加えた。その結果、それら抽出した訳語の多くで中国知識人である厳復や梁啓超による訳語等は採用されず、日本語借用語が採用されていることが判明した。その一大要因としては中国知識人によって創出された訳語が学術分野自体の名称等の基本的語彙の訳語を創出するに留まり、日本語借用語に対抗しうる独自の各学問分野の専門用語の訳語体系の構築できなかったことが考えられる。

日本語借用語の中国語文への流入は日中関係の悪化に伴い一度は中断したが、改革開放政策の実施と共に再開され、現在もなお続いている。このことからも今後も中国語中に受容される可能性を持った日本語彙、或は以前に受容した日本語借用語の影響を受けて現代中国において独自に創出される語彙について考える時、それらと近代に始まる日本語借用語の中国語への流入現象とは決して別々に論じることのできないものであるといえ、日本語借用語の中国語への流入現象についての研究をより広範囲・詳細なものにしていくことが、今後の重要な課題であるといえる。


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