新潟大学人文学部

米中接近から日中国交正常化までの歩み

崔 京国(新潟大学人文学部)

本論文は、戦後初期にアメリカが構築したサンフランシスコ条約体制下の日中関係から1972年の米中接近による日中国交正常化への過程を、考察したものである。20世紀における日中関係は、複雑な国際関係に左右されがちであった。なかでも、米国の与えた影響は、大きいものであった。

第二次世界大戦後、日本はアメリカの圧力に耐えずに、台湾の国民政府との間に「平和条約」締結した。『日華平和条約』の締結は、吉田内閣がアメリカに追随し、中国敵視を意味する重大行為であり、戦後の日中関係発展の阻害要因となった。この決断が、その後ほぼ20年間にわたる日中関係の枠組を決定することになる。

1969年大統領に就任したニクソンは対中政策を見直し、米中接近を図った。1971年7月15日、ニクソン大統領はテレビで全国に向けて、キッシンジャーが周恩来と会談したこと、そして1972年5月前の中国訪問の招待を受諾したことを発表した。この出来事は、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。ニクソンのこの声明は世界中の反響を呼び、様々な国際レベルにおいて政治的再編を引き起こした。1971年10月第26回国連総会が開かれ、25日中華人民共和国の代表権を認めるアルバニア決議案が可決された。1972年2月21日ニクソンは北京に到着し、27日上海コミュニケが発表された。上海コミョニケは、台湾や二国間関係に関するものではなく、国際情勢にも大きな影響を与えた。

対中政策の失敗によって、佐藤首相は、6月17日に退陣する意志を表明した。1972年7月7日に田中内閣が成立した。田中首相は中華人民共和国との国交正常化を急ぐ決意を表明した。これに対し、周恩来総理は、田中内閣の誕生と早期対中国交正常化を目指す政策を歓迎すること声明を出した。1972年9月25日、田中角栄首相、大平正芳、二階堂進官房長官および日本政府関係者が北京に到着した。日中双方は揉めながらも、最終的に戦争状態の終結問題や台湾の帰属問題などについて、妥協しあって、共同声明の内容につき合意に達した。29日、人民大会堂で共同声明調印式が行われ、日中国交正常化が実現された。

戦後日本の外交は、アメリカの影響に大きく左右されてきた。日本は、アメリカが築き上げた冷戦の象徴であったサンフランシスコ条約体制に縛られているかぎり、自主・独立な外交ができなかった。長い間、日本は外交の自主性を放棄、アメリカに追随した。日本は中国の国連加盟と「ニクソン・ショック」に衝撃を与えられ、自分なりの外交のあり方を模索し始めた。中国との国交正常は、その第一歩である。米中接近の過程と日中国交正常化の過程は、対照的であった。アメリカの場合は、戦後20数年中国との接触がまったくなかったため、外国で仲介役を探さざるを得なかった。直接な対話ではないので、米中接近の道が非常に険しかった。日本の場合は、中国と正式な外交関係がないが、民間レベルの交流が戦後からずっと続けてきた。国交正常化の交渉はアメリカの交渉よりスムーズであった。


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