新潟大学人文学部

崔浩被誅事件について
−太武帝の意志に注目して−

伊藤 麻里(新潟大学人文学部)

崔浩被誅事件とは、北魏の太平真君11年(450)6月、漢人名族崔浩が国史編纂をした際、北族を蔑視した表現を用いたため、北族と時の皇帝である太武帝の怒りに触れて、崔浩は姻戚者である漢人名族たちを多数巻き込み処刑されたという北魏の一大事件である。

崔浩は北魏という異民族国家を漢族中心の国家にしたてあげようとしたり、仏教盛んな北魏で太武帝を道教信者にして廃仏をさせたりと、この時期の北魏政権の中心人物の1人であった。崔浩被誅事件は、北魏前期が一体どういう時期であったかを知るための大きな手がかりとなるため、すでに多くの研究がなされ、胡族と漢族の民族的な問題に起因しているという定説がすでにできあがっている。

しかし、崔浩被誅事件がいかなる視点で研究されてきたか、先行研究や史料を分析した結果、胡漢問題に起因するという説に納得はできるものの、現在までの先行研究はこの胡漢の問題に焦点が当てられてすぎていたため、崔浩の処刑を決した太武帝の意志についてはあまり言及されておらず、この点について考察する余地が残されていると考えた。従って、太武帝と崔浩の関係が、いつ、なぜ、どのようにして変わっていったのかを政治状況の変化から検討し、さらに太武帝が崔浩被誅事件直後に行った南伐にも注目し、崔浩被誅に対して太武帝はどのような意志を持って決したのかという視点から、崔浩被誅事件を明らかにしていくこととした。

まず太武帝と崔浩の関係を、太武帝の即位時、積極対外戦時、華北統一後、廃仏時、崔浩被誅事件以前の5期に分けて確認した。その結果、448年太武帝と崔浩の思想的仲立ちであった寇謙之が死に、太武帝と崔浩、寇謙之の3者で成り立っていた関係が崩れ、449年北方の柔然に大打撃を与えて背後の対外的問題が解決したことから、南伐賛成の太武帝と反対の崔浩、両者の南伐についての考えの違いが浮き彫りとなり、崔浩に絶対的な信頼を寄せていた太武帝に感情の変化が訪れたと推測した。

従って、両者の間に溝ができた契機と考えられる南伐に特に注目して、太武帝の崔浩処刑に対する意志を探った。その結果、崔浩被誅事件は民族的な問題を背景にした太武帝の意図であった可能性があると考えた。これから南伐を始動しはじめる太武帝にとって、戦争の担い手である北族たちの信頼が重要だった。だからこそ、今まで漢族主義を貫き、北族に恨みをかっていた崔浩と、崔浩を媒介としながら北魏国家に多く参入しはじめた漢人名族たちを処刑し、これから漢族王朝である宋という大国に向かうにあたって、北族たちの戦争に対する機運が高まるようにと太武帝自身が考えた一種のパフォーマンスのようなものであったのではないかと推測されるのである。

こうした太武帝の意志を探ることは、従来とは違った崔浩被誅事件を探る一つの要素となったのではないかと思う。


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