新潟大学人文学部

鉄道敷設にみる日本の満洲進出
−安東縣から南満洲鉄道へ接続線が敷設された目的の変遷−

中島 万裕(新潟大学人文学部)

「安奉線」とは、1904年に勃発した日露戦争の最中、日本が兵站線として清国領土内に建設した、安東縣(現丹東)と奉天(現瀋陽)を連絡する軍用鉄道であった。日露戦争終結後、安奉線の取り扱いについては、日清間で行われた交渉会議において取り決められ、安奉線は日本が維持・経営することになった。またそれにあたって、軍事鉄道としての運用を廃止し、商工業用鉄道に限定して運用されることが決定した。

本論文では、日露開戦前の安奉線の構想、戦中の敷設・利用状況、戦後の経営状況を考察する。これによって安奉線の性格が、戦前の構想段階から戦後経営する段階にかけてどのように変化したのかを明らかにした。

1890年3月、山縣有朋は、極東に進出を図るロシアに対抗して本土を防衛するため、朝鮮半島を日本の勢力下に置くことを提起した。日本の満洲進出は、この朝鮮半島をさらに防衛するための防衛線を築くことであったと思われる。そして防衛線内にある日本の勢力範囲を具体的にするものが南満洲鉄道であったといえよう。この南満洲鉄道のなかで、安奉線は本線と朝鮮半島鉄道を結び、南満洲における日本の動きを敏活にする役割をおった鉄道であった。

安東縣から東清鉄道南満支線(南満洲鉄道)へ、朝鮮半島鉄道‐満洲鉄道の接続線を敷設した目的は、日露戦争前の構想段階、日露戦争中に敷設した段階、日露戦争後に日本の勢力下に収められた段階の3つの段階で変化していったと思われる。 構想段階での目的は、朝鮮半島の経済活動をより活発化させることであった。1902年に日英同盟を締結していたイギリスの勢力下にある鉄道に接続することで、対露戦略を強化する意味もあったと考えられる。

敷設段階での目的は、臨時兵站線として軍事物資の輸送を行うことであった。1904年2月の日露戦争開戦により、構想段階で経済を主に目的とした考えは変化し、陸軍の下で軍事的な目的により敷設され、利用されるようになった。

ポーツマス講和後に行われた日清交渉によって、正式に日本の勢力下に収められた後は、商工業用鉄道として運用することが取り決められたが、目的は将来の対露戦略にあった。南満洲鉄道株式会社による経営状況をみると、順調に収益を伸ばし、輸送力も向上している。これもまた、安奉線が軍用鉄道として活用できる状態になっていく過程を表しているといえよう。

すなわち安奉線の敷設目的は、当初経済面が強かったが臨時軍用鉄道として敷設されたことで軍事的なものに変化した。その後も対露警戒から軍事鉄道としての性格を強めた。そして戦後、軍事鉄道としての機能を充実させるように整備され、これに付随する形で経済鉄道としての機能も充実していったのだと思われる。


2004年度卒論タイトル Index