新潟大学人文学部

植民地期の朝鮮半島における考古学研究について
−百済の考古学研究を中心に−

冨井 麻衣(新潟大学人文学部)

朝鮮半島での考古学研究は20世紀初め頃から日本人によって開始され、朝鮮総督府の古蹟調査事業の中で改良を加えられながら発展し、「遺跡保存」という点がもっとも重視され「古蹟及遺物保存規則」や「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」といった法整備がなされた。しかし実際は現場には目が届かず盗掘・略奪を防止しきれていなかったといえる。

特に今回取り上げた百済古墳については調査の対象になった古墳のほとんどがすでに盗掘され遺物が持ち出されていたり、一度発掘が行われたにも関わらずその後、盗掘されるケースもあり遺跡保存が徹底していたとはいえない。また1920年代から開発や盗掘などの遺跡破壊による緊急調査が増加するが、調査を担当できる職員の数には限りがあるため、事業計画通りに一般調査を行えない場合もあり、次年度に調査がずれこむこともあった。このような人手不足は次第に慢性的なものになり、特に植民地期の末期に近づくにつれて、行った全ての調査について報告書を刊行できなかったり、未刊のまま調査者が他界する場合も多かった。その点を見ると古蹟調査事業は上手く機能していなかったように思われる。百済遺跡の調査は、百済文化には独自性がないという関野貞の百済に対する認識がその後にも影響し、研究者の関心を引くにはかなりの時間を要した。また総督府や朝鮮古蹟研究会の調査方針の影響も大きく、楽浪・新羅については常に調査計画含まれていたが、百済に関しては朝鮮古蹟研究会の調査対象で楽浪・新羅が重要視されるとほとんど調査が行われない時期もあった。調査対象から外された理由として、朝鮮古蹟研究会では補助金・下賜金を得ているためすぐに成果が出る遺跡が調査対象として優先されたことがあげられる。また1930年代頃まで百済では考古学的に重要な発見はほとんどなく、調査しても盗掘が多く、楽浪・新羅に比べ調査の成果が期待されていなかった。しかし楽浪・新羅に偏った調査について反省が行われると、計画に含まれるようになり、また壁画古墳の発見など注目される発見があると古墳の調査が増加した。百済遺跡の発掘調査の特徴は古墳と廃寺址に重点が置かれ、ほとんどその調査に限られていた。廃寺址については1936年の軍守里廃寺址の調査の結果、日本の飛鳥時代の寺院と深い関係があるとされ、その後も日本と百済の関係を明らかにするという期待からほかの百済廃寺址の発掘調査が計画に入れられ行われた。古墳に関しては陵山里、宋山里の古墳群での集中的な発掘調査によって旧都広州、公州、扶余でそれぞれ特徴のある古墳の形式が存在することが分かり、百済古墳の変遷を明らかにすることができた。また三国時代の高句麗、新羅ともまた違った独自の文化を形成していたことも認められた。百済の考古学調査は発掘された遺跡の数も、成果のあった調査の数も他の対象地域や時代に比べかなり少ない。それは発掘の調査の成果によって飛躍的に研究が進展する考古学という分野の調査で、なかなか壁画古墳の発見や飛鳥寺院と類似した廃寺址といった興味をひきつける成果が出ず、百済文化の独自性に気づくのが遅かったことが一番の理由だと考えられる。


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