新潟大学人文学部

魯迅の翻訳について

赤川 真智子(新潟大学人文学部)

魯迅の文学活動の中で翻訳が占めた割合は高く、創作と比肩する。魯迅翻訳は、その文体的特徴をもって「硬訳」と称される。本論では魯迅の翻訳を中心に、五・四新文化運動期に誕生した魯迅の二つの白話(口語)文体、すなわち創作文体としての白話文体と翻訳文体としての白話文体を比較し、魯迅にとっての硬訳文体の意義を考察した。

第1章では魯迅の白話翻訳文体が誕生する背景について確認した。魯迅が翻訳を始めたのは1904年頃からと考えられるが、魯迅翻訳文体として特徴的な、白話による極端な直訳文体が誕生するのは1910年代半ばから1920年代中頃にわたる五・四新文化運動期である。これより以前の近代中国における梁啓超、厳復、林紓などの翻訳は、文言(古文)体のうえに作品のストーリーや構成に翻訳者の手が入れられ、原作とはかけ離れたものだった。一方魯迅が白話文体を採る直接のきっかけに、五・四新文化運動の一環としての白話運動があり、これらの背景のもとに魯迅は白話による硬訳文体を選び取った。

第2章では魯迅の創作文体と翻訳文体を比較しながら、魯迅白話翻訳文体について考察した。第1節では、魯迅が文言で書いた小説「懐旧」と白話で書いた「阿長與山海経」において、同一エピソード部分での文体を比較し、雑感文等の記述と併せて外国語、文言、中国各地の方言といった多様な文体の特徴を取り込み、口語の文体をベースとした簡潔かつ生き生きとした文体を魯迅が創り上げようとしていたと考察した。第2節では魯迅の白話翻訳文体について、魯迅の中で白話創作文体が誕生した頃、魯迅の翻訳文体もまた白話による極端な直訳文体になったが、これは魯迅が原文の表現(動作主の不明示や、文の主題、語順、固有名詞の扱い)を訳文の中に活かすよう努めることで、中国語文にそれら原文に現れた外国のエッセンスを取り入れようとしていたためであると考察した。以上から、第3節では、魯迅の翻訳には五・四文化運動期以前から白話文体があったが、全体的に白話の直訳調に整うのは五・四時期であり、魯迅にとって、この翻訳文学が象徴する外国文学は新しい中国文学のための素材であって、翻訳文体も創作文体のための素材であったと考察した。白話翻訳文体は、新中国文学のための白話創作文体に影響を与えていたと考えられる。

白話文体が誕生したときに、魯迅が自己の翻訳文体に求めたものは、中国固有の文学のための文体との明確に区別された文体だったのではないかと考えられる。しかし魯迅は、自己の硬訳文体が、中国語文としての姿からは決定的に離れてしまうことを自覚しており、もっとよい翻訳があれば、自分の「硬訳」は淘汰されてゆくのが当然であるとも考えていた。魯迅が自身の翻訳文体に、翻訳特有の文体創造への掛け橋としての役割を期待したのであったとすれば、魯迅「硬訳」文体は翻訳文体に対する論争を起こしたことですでに、後世の中国翻訳に十分寄与していたと言えよう。


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