新潟大学人文学部

『荀子』楽論篇の研究
―教育および教化の思想を中心として―

御舩 悠(新潟大学人文学部)

本論は、『荀子』樂論篇に見られる音樂教育および音樂によるいわゆる人心教化の思想について論じたものである。『荀子』樂論篇は音樂をどのように認識し、またいかなる意図をもって子弟にそれを学習させたか、またその結果としていかなる人間像、君子像が想定されていたのか、が「第一章「樂論篇」における音樂教育について」で考察した内容である。第一節においては、『禮記』樂記の記述を手がかりに、戦国期の「正樂」が、君子においても軽視されていた状況を確認し、また孔子が「正樂」の学習にいかなる価値を見出していたかを概観した。第二節においては、『荀子』全体を通じて見られる教育観を、学習の目的、学徒の学習に対する態度、学習環境の三項目に分類して考察した。そこでの結論は、学習の目的は善なる行いを積み重ねて聖人となることであり、学徒は学習を死ぬまで継続する態度を要求されること、学習環境とは良き師であり、良き友人関係であることが確認された。第三節ではこれらの教育思想が「樂論篇」にどの程度反映されているかを考察した。おおむね『荀子』全体を通じて見られる教育思想と一致するとみなしてよいと思われる。次いで第四節では、「樂論篇」に想定される君子像を考察した。そこでの君子は、音樂を用いて民衆を善なる方向へ教導する君子であり、他の諸篇で言われる禮を示すことで国家を安定させ民衆を善に導く君子の姿と大きな枠組みを同じくするものである。

ただし、音樂は人間の情性に働きかけ、これを感化する点で禮と大きく異なる。「第二章「樂論篇」における教化の思想について」の課題は、音樂による教化の特性を明らかにすること、およびその特性が「樂論篇」における民衆統治の方法論の中でどのように位置づけられるのかを明らかにすることであった。第一節においては『荀子』諸篇に言われる「化性」の概念について考察した。そこでは、師の導きによって学習を積むことで人間は本性を改変できるとされ、これは習慣的動作ないし学習による精神の感化に相当すると思われる。このことは「樂論篇」における先王が制定した「正樂」が行き渡ることで民衆の習俗が善になるとの図式と一致するものである。第二節においては音樂が「気」に働きかけることを考察した。精神に関連する「気」として順気と逆気があり、正樂とよこしまな樂にそれぞれ反応して発動し、人間を善ないし悪に導くことが言われている。また、身体を構成する要素として「血気」が言われており、正樂を習得することで「血気」は人間の身体を改変させる働きがあることが考察された。第三節においては、習俗や「気」による教化の理論が「樂論篇」の民衆統治理論においていかなる役割を持つかについて考察した。その結果、禮を修めた為政者が、禮に適った音樂を、禮を修めていない民衆に対して示すことで、正しい音樂をその習俗として定着させ、それによって民衆を善なる方向に導き、社会を安定させることが結論された。


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