新潟大学人文学部

蒙疆政権と日本
―『蒙疆新報』が報じた徳王―

秋山 早希(新潟大学人文学部)

現在中国の内モンゴル自治区となっている地域は、1930年代から1945年まで日本の支配下にあった。西部には徳王が自治運動を起こした結果、1937年、日本の影響の下、蒙古連盟自治政府が成立し、1939年には蒙古連合自治政府、1941年には蒙古自治邦と名称や形態が変化した。この三政府を総称して「蒙疆政権」と呼ぶ。本論文では、蒙疆地域で発行されていた『蒙疆新報』から徳王の対外関係、特に日本と満洲国に関わる記事を抜き出し、徳王の行動の報じられ方を見ていき、その背景事情を考察した。また、比較対象として、日本の『朝日新聞』を使用し、同じ出来事がどう報じられているのかについても検討した。対象時期は1939年9月1日から、1943年1月17日までとした。

第一章では、モンゴル独立を目指した徳王が日本と「結託」し、自治政府を成立させていく過程を、清朝時代から1943年まで時期を区切って概観した。

第二章では、蒙疆新報とその発行元である蒙疆新聞社と『蒙疆新報』について概観した上で、『蒙疆新報』と『朝日新聞』からそれぞれ抜き出した記事についての考察を進めた。

蒙疆新聞社は、1938年5月20日、蒙疆地域における日本の国策広報等を目的として設立された新聞社であり、『蒙疆新報』は同社の発行する中国語の日刊新聞である『蒙疆新報』の目的もやはり日本の広報宣伝であった。

記事を読んでみると、『蒙疆新報』には、モンゴルと日本、または満州国との連携の強化を謳った文句が目につく。つまり、こうした記事を大きく掲載することで、三国の結びつきを強くしようとする日本の姿勢を広く在蒙漢人に広めようとしていたと考えられる。一方『朝日新聞』では、記事の内容自体はほとんど『蒙疆新報』と同じであるが、スペースが小さく、続報も少ない。これは、『朝日新聞』は『蒙疆新報』に比べて宣撫の必要性が低かったためと考えられる。

徳王は内モンゴルが中国から独立することを望み続け、最終的に日本と「結託」し、自治を目指した。しかし日本は内モンゴルの独立などは望んでおらず、「防共」という自らの利益のために内モンゴル地域を欲し、徳王に接近した。その後内モンゴルには蒙古連盟自治政府、蒙古連合自治政府、蒙古自治邦が立て続けに成立したが、結局日本の支配下からは抜け出すには至らなかった。徳王の言葉を借りると、日本にとっての徳王は、内モンゴルを手に入れるための「看板」にすぎなかったのである。こうした日本側の基本姿勢が、『蒙疆新報』の記事にも見て取れる。『蒙疆新報』には、日本や満洲と協力して共産主義を打倒しようとする「傀儡」そのもののような徳王の姿が描かれており、徳王の意に反して、日本の宣撫の一端を担っていたことが読み取れる。


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