新潟大学人文学部

朝鮮の王宮景福宮について
―『東亜日報』の記事を中心とした考察―

樋口 祐子(新潟大学人文学部)

景福宮は1394年の遷都とともに造営が開始され、翌年に落成した李朝の王宮である。1543年、1553年に起こった火災や、壬辰倭乱などによって多くの建物が焼失した。その後約270年の間復旧されることはなかったが、1865年大院君によって重建された。その後も、1926年には朝鮮総督府庁舎が敷地内に建てられるなど、その姿は変化していった。本稿では『東亜日報』が報じた記事を中心として、1920年代から、1960年頃までの景福宮について考察した。

第一章では、第一節に李朝時代の景福宮、第二節に大院君による再建、第三節に植民地支配下の景福宮と三節に分けてまとめた。

第二章からは1945年以前、1945年以降に分けて紙面の検討を始めた。1920年代から1945年までの記事では、総督府庁舎に関する記事、景福宮内で行われた運動会・博覧会・美術展、一般公開に関する記事を検討した。景福宮内に総督府庁舎を建設することに対する記事は、予想外に少なく、否定的な表現はあったものの、直接反対意見を述べているものはなかった。記事が少ないのは、庁舎の建設がすでに始まっていたためであるとも考えられた。1945年以降の記事では、米軍が1946年に景福宮内に兵舎を建設すると発表した際の記事、美術展・音楽祭に関する記事、一般公開に関する記事を取り上げて検証した。米軍兵舎建築に関しては、朝鮮解放の恩人である米軍であっても、景福宮内に宿舎を建設することは一致して反対していたことが記事から明らかになった。また、景福宮内で開催されていた美術展は、1945年以前は朝鮮総督府主催のものであったが、解放後は大韓美術協会や大学などが主催していたことがわかった。

 第三章では景福宮との比較のため昌徳宮・徳寿宮に関する記事について検証した。昌徳宮に関する記事では、1945年以前の記事のほとんどが総督が昌徳宮に伺候するというものや、李王殿下が昌徳宮内を散歩したというものであり、一般にはほとんど公開されていなかったことがうかがえた。徳寿宮では、1945年以前は徳寿宮売却に関する記事が目立った。また、美術展覧会が開催されていたり、猿や孔雀などを集めた動物園を設置したりしていた。建物が撤去され、美術展などが開催されていたという点では、徳寿宮は景福宮と似ている部分がある。しかし、徳寿宮に居所していたのは、高宗であり、景福宮は日本によって支配されていた。

 景福宮は、李成桂によって創建されてから火事や壬辰倭乱など多くの受難に遭ってきた。大院君によって再建された後も、日本によって宮殿内の多くの建物が撤去された。1920年代は、朝鮮総督府庁舎の建築や、博覧会の会場をつくるために、多くの建物が撤去されていった。1930年代ころからは、総督府主催の美術展が毎年開催されるようになった。このように、かつての王宮は日本の植民地支配・文化的支配の象徴へと変化していった。1945年の解放後は、米軍の庁舎建設の記事などから、米軍の支配下にあったのではないかと考えた。最後に、本稿では『東亜日報』の記事を中心として考察を進めてきたが、発行停止期間については考察することが出来なかった点を反省しなければならない。


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