新潟大学人文学部

満州農業移民に関する研究
〜山形県農業移民を中心に〜

佐藤 愛(新潟大学人文学部)

満州は現在の中国東北部を指す。一章では、満州移民に関する概観をまとめた。満州移民は、1932年から1945年の14年間にわたり、日本から「満州国」(以後、括弧省略)へと27万人を農業移民として送出した国策の移民事業であった。

第二章第一節では、山形県の満州移民に関する資料について、第二節では移民関連の組織について説明し、第三節では山形県における満州移民史を概観した。山形県の満州移民資料の通史と呼べる資料は、『山形県史(本編4・拓殖編)』の「第二編満州」編である。この『山形県史(本編4・拓殖編)』の第二編は、山形県の「県開拓自興会」の協力によって編纂された。山形県では、満州開拓の国策の決定とともにその実施機関の整備が進められたが、地方の実施機関としては、各府県庁内では学務部職業課、または社会課が主務となった。その後、1937年、全国に先駆けて、山形県と長野県に拓務主事が配置され、さらに1941年には学務部内に拓務課が設置された。山形県において、満州農業移民の先駆的役割を果たしたのは、朝鮮に対しての農業移民であった。これに大きな役割を果たしたのは山形県自治講習所の所長加藤完治を中心とする卒業生や、山形県の青年であった。山形県からは20戸が、朝鮮移民へと参加した。

第三章第一節では、満州に「分郷」を建設する「大庄内郷建設計画」について概観した。第二節では、1939年に発表された「満州開拓政策基本要綱」により結成された「満州北村山郡建設組合」が入植して「竜江省甘南県協和開拓団」となる経過を見た。第三節では、第九次北村山開拓団の一員として1911年(昭和16年)満州に渡った、山形県東根市在住の野川君江さん(現在85歳)の貴重な回想談を記録した。

第四章第一節では、「山形県自治講習所」の変遷を概観した。山形県自治講習所とは、1915年12月に開所した、地方自治の担い手となる青年のための講習所であったが、1933年に山形県高等国民学校に発展的に解消した。第二節では、自治講習所の残した「山形県青年修養道場(大高根道場)」について、事業内容を説明した。第三節では、自治講習所の移民事業への関わりを検証した。所長の加藤完治は、1921年頃、農村過剰人口問題の解決のため、海外移民、さしあって朝鮮移民に着目した。1934年に移住奨励機関として、講習所卒業の有力者をメンバーとする「朝鮮開発協会」を設置したが、すでに1926年以降、大高根道場は朝鮮・満州移民の基礎訓練場となっていた。

おわりに、本論文では、満州への移民に関して、山形県と他県の移民との比較ができなかったことが課題として残るが、山形県の移民送出数全国第二位という結果は、武装移民期からの移民の伝統や、加藤完治という指導者の存在、自治講習所から輩出された青年の活動、市町村の指導者の移民への熱心な実践活動によってもたらされたものであることが明らかになった。


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