新潟大学人文学部

遼代の科挙官僚について

植松 知博(新潟大学人文学部)

科挙とは隋に始まる学科試験による官吏任用制度である。優秀な人材をより効率的に得るのに有効的な手段として中原王朝では唐代以降広く行われたが、征服王朝である契丹(遼)でも漢人支配と国家機構の整備に伴う人員の確保の必要性から六代聖宗朝以降、漢人を対象に科挙が本格的に開始され、科挙に登第した多くの漢人科挙官僚が新たに登用されるようになった。僕はこの遼代の科挙官僚(漢人科挙官僚)に注目し、彼等が遼政治上どのような位置づけにあったのかについて検討した。

第一章では先ず、遼代の科挙についてその開始時期、試験科目、四試の制、応試資格、不正行為と事前運動の五つの項目について唐宋の科挙と比較しながらまとめた。そこから遼の科挙は科目、殿試の設置という点において宋制の影響を強く受けつつも、契丹人の応試禁止や殿試落第者の存在など、一定の独自性も持っていたことがわかった。

第二章では科挙を登第した科挙官僚の初任官と南北面高官における任官状況について非科挙出身漢人や契丹人と比較しつつ考察した。考察の結果、科挙登第者は時代が下るに連れて優遇されていく傾向にあったことがわかった。特に南面高官における任官状況については道宗朝にはいって科挙出身官僚の任官例が急激に増加し、漢人任官者の半分以上を占めるようになった。しかし、科挙官僚の高位進出は無制限に許されていたわけではなく、彼らが漢人である以上その任官は主に南面官に限られていて、科挙の開始が必ずしも漢人官僚勢力の政治的進出にはつながらなかったとした。

第三章では遼代の漢人官僚集団の変遷について、その成立から科挙が開始されるまでの状況と科挙が開始されてからの変化ついて考察した。その結果遼政権において科挙官僚が優遇されるにつれて漢人達は科挙を重視するようになり、科挙官僚が漢人官僚集団の中心となっていったと結論付けた。

以上のことから科挙の開始によって遼代後期には漢人官僚の中心は科挙出身の官僚となっていったが、しかし、その科挙官僚の任官は主に南面官に限られ、軍権は常に契丹人が握っていて、科挙の開始後も漢人が遼国政の中枢を担うことはなかったと考えられる。

宋においては太宗朝以降科挙登第者が大量に取られて優遇され、その中から宰相執政になる者が多く、彼らは君主独裁体制を支える重要な柱として機能した。これに対し、遼では科挙に早い段階から殿試が取り入れられ、殿試登第者は優遇され高位に任官したが、上述のように彼らが遼国政の中枢に関わることはほとんどなく、宋のように君主独裁体制を支える役割を負うことはなかったといえる。結局遼は漢人である科挙官僚に皇帝に忠実な実務官僚、行政事務における契丹人の補佐としての役割のみを求めただけで、宋と同じように君主独裁体制の柱にしようする意図は無かったと考えられる。


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