新潟大学人文学部

西安事件と抗日民族統一戦線の結成に関する研究

吉田 茉紀子(新潟大学人文学部)

1936年12月12日に勃発した西安事件は、中国人民の意思を抗日に集中させた直接の要因となったといえ、中国全体から見れば、この点に西安事件の意義があると考える。しかし、事件の当事者に関して言えば、同様な意義を求められるだろうか。本論文では西安事件の意義について事件の当事者である、張学良、中共、国民党に焦点を絞り検討を試みた。

第一章では事件の背景を考察した。1935年より始まった日本の華北分離工作に対して、中共が抗日民族統一戦線政策の方針をとると、中国人民だけでなく張学良が率いる東北軍内でも内戦停止・一致抗日の要求が高まった。しかし蒋介石は依然として安内攘外政策の方針を変更しなかった。

第二章では事件の首謀者である張学良と楊虎城が事件にどのような見通しを立て、実際どのように展開していったのか考察した。張学良らは繰り返し蒋介石を説得したが、応じなかったため、1936年12月12日蔣介石を監禁した。しかし事件は蒋介石を監禁することまでしか計画されていなかった。その後中共側の代表として周恩来と、南京国民政府の宋美齢・宋子文らが交渉に加わり、蔣介石は張学良らの要求を認めた。また事件中に国民政府中央が抗日戦の準備していることを知った張学良は、12月25日に独断で蒋介石の釈放を決定し、蔣介石とともに南京へ同行した。抗日民族統一戦線の結成を実現する上で事件の首謀者である張学良が罪人として南京へ同行したことは、蒋介石の国家の最高指導者としての権限を維持させることとなり、重要な意義を持ったと考える。

第三章では事件に対して、中共、南京国民政府、コミンテルン、日本が各々でどのような対応をとったのか考察した。

第四章では西安事件の平和的解決後、第二次国共合作が成立するまでを考察した。国民党が「赤禍根絶案」において、国共合作への意思を表明すると、国共合作のための交渉が本格的に開始された。しかし、交渉が進まないまま盧溝橋事件が発生した。蒋介石は7月17日に「廬山談話」を発表し、初めて抗日への意思を公表したが、抗日戦の発動はためらっていた。しかし8月13日に第二次上海事変が起こり、9月22日中共中央が「国共合作宣言」を発表すると、翌日蒋介石はこの宣言を受け入れ、1937年9月23日第二次国共合作が成立した。

張学良はその計画性の乏しさにより、自身が望んだ抗日民族統一戦線や対日抗戦に参加することができなくなった。一方、中共は剿共作戦を停止し抗日に向かわせるための保証を取り付けることに成功した。また蔣介石は事件以前から対日抗戦への意思は固まっていたが、まだ準備期間が必要であった。西安事件の平和的解決は対日抗戦のための準備期間を国民政府から奪い、蒋介石にすれば未完成のまま統一戦線を結成することになったと言える。


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