新潟大学人文学部

壬辰丁酉倭乱期における降倭の活動について

波田野 優子(新潟大学人文学部)

降倭とは、壬辰丁酉倭乱時に明・朝鮮側に投降した日本兵のことを指す。近年、この降倭に関する研究が盛んであるが、時代の流れの中で降倭がどういった役割を果たしたのか述べられることはなかった。本論では、まずこの戦争の概観について触れた後に、降倭の活動をその内容ごとに、時代の流れに沿って分けていきながら述べた。

第一章では壬辰丁酉倭乱の概要と降倭について説明した。壬辰丁酉倭乱(1592年-1598年)は、豊臣秀吉が二度にわたり起こした朝鮮に対する侵略戦争である。日本軍は朝鮮に侵攻したものの、結局秀吉の死を契機として朝鮮から撤退した。降倭は食糧不足や戦争の長期化により、1594年頃から急増し、丁酉再乱時の1597年に再び増加した。こうした日本兵は少なくとも1万人以上いたと言われている。

第二章では実際の降倭の活動を、主に『宣祖実録』を使用しながら見ていった。朝鮮側は、特に1593年から94年にかけて、彼らを鳥銃や焔硝を作る技術を得るために利用した。こうした技術や日本の剣術等を伝えて、信頼された降倭も存在した。一方で、戦争が長期化する中で降倭が急増すると、技術を持っていないなど、朝鮮にとって対応に困る降倭も存在していた。『宣祖実録』1594年6月の記録から、こうした降倭を慶尚道などの内地に送り、やがて咸鏡道や平安道などの北方に送るようになったことが分かっている。降倭は日本軍や降倭同士で呼応しないように分けて送られ、その土地で農作業をするような措置がとられた。また北方に送られた降倭は、力をつけてきた女真族との戦いにも投入した。降倭の戦闘能力の高さは内乱鎮圧にも利用された。1594年9月頃からは、降倭が水軍にも送られるようになり、そこで降倭は格軍(船漕ぎ)として活用された。

1597年に戦争が再開されると、朝鮮は戦闘に降倭を使うようになった。また日本軍の情報を得ようと、あるいは日本軍を内側から混乱させようと、降倭の活動は活発になった。壬辰倭乱中は重用される一方で、疎まれている記録の多かった降倭が、丁酉再乱時には官職を受けて活躍する者もおり、こうした点が壬辰倭乱と丁酉再乱中の降倭の一つの違いだと思われる。壬辰丁酉倭乱後も降倭は北方防備や内乱において活躍し、受職した日本人の記録がしばしば見られていたが、やがてそれも見られなくなる。 このように、降倭の活動と戦争の経緯は密接にかかわっていたといえるが、戦争において活躍したと簡単にいえるものではなく、多様な生き方があった。


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