新潟大学人文学部

壬辰・丁酉倭乱時に連行された朝鮮人被虜について

佐藤 理美(新潟大学人文学部)

壬辰・丁酉倭乱は1592年から1598年までの2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略のことである。1592年4月12日、小西行長、宗義智の第1軍が「仮道入明」を要求したが、朝鮮が拒否したため、壬辰倭乱が起こった。1593年には和議交渉が始まったが秀吉の要求が無視されていたために1597年に丁酉再乱が起こり、秀吉の死が伝わる1598年8月まで続いた。

2度にわたる倭乱では多くの朝鮮人が日本に連行され、彼ら被虜人の刷還は日本と朝鮮が国交を回復するにあたって重要な課題の一つであり、朝鮮使節の来日において被虜人の刷還は主要目的の一つであった。本論では『宣祖実録』『光海君日記』『仁祖実録』の3代にわたる王朝実録や朝鮮使節による使行録から被虜人に関する記録を用いて被虜人の発生から帰国・定住にいたるまでの過程について考察を行った。

従軍僧天荊によれば1592年4月14日にはすでに被虜人の発生がしている。被虜人の発生地域は全羅・慶尚道の2道が多かった。連行された者の多くは日本で農耕従事者として働いていたが、一部はポルトガル商人を通じて長崎からヨーロッパへと転売された。

刷還活動は1607年から1643年までの長期間にわたり行われた。朝鮮使節の立ち寄らない地域には対馬の役人や朝鮮使節の訳官からなる分遣隊を派遣したり、信頼のおける被虜人を刷還活動にあたらせた。しかし徳川幕府が協力的だったが、日本での雇い主である主倭が「帰国しても奴僕とされたり、殺されたり、島流しにされる」といううわさを流すなど刷還への妨害は多かった。 被虜人の刷還活動は日本各地で行われていたが、刷還され朝鮮へ帰還してからの対策は十分でなく、探賊使とともに帰還した被虜人たちは水軍に奴隷とされていた。また朝鮮侵略中に日本に加担したとされる者については罪に問われた。

被虜人の中には朝鮮語が話せない、結婚してすでに子供がいるという理由などから、帰国の意思がない者が多かった。彼らは日本への同化がすすみ身分を上昇させる者も出てくるようになる。また戸籍上では被虜人一世は「高麗人」とされていたことに対し、日本で生まれた二世は「日本人」とされていたため、さらに定住は進んだものと考えられる。

このように刷還活動が思うように進まなかったのは奴隷として多くの被虜人が海外へ転売されていたこと、被虜人の多くが日本へ定住したこと、帰国後の待遇が悪かったことで帰国に思いとどまったのではないかと考察した。


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