新潟大学人文学部

壬午軍乱
―金允植・魚允中の動きを中心に―

佐藤 真沙美(新潟大学人文学部)

壬午軍乱は高宗19(1882)年6月、首都ソウルで起きた軍人暴動である。軍乱時清にいた金允植・魚允中は、朝鮮で軍乱が起こり、大院君が政権を握ったという報告を受けた。二人は開化政策の前途を危ぶみ清に出兵を要請し、軍乱を鎮める上で重要な役割を果たした。本稿では、高宗18(1881)年開化政策の一環で、領選使金允植が留学生・工匠を引率して清へ行くところから、翌年軍乱が鎮圧され、日朝間で済物浦条約・日朝修好条規続約が調印されるまでの時期を取り上げ、その間の金允植・魚允中の動きについて、特に清国に出兵を要請するにいたった経緯を詳しく見ていき、彼らが軍乱に対してどのように考えていたかを探った。史料は公的記録である『高宗実録』『承政院日記』『日省録』、金允植・魚允中の著書、中国側の対朝鮮関係史料を集めた『清光緒朝中日交渉関係史料』を使用した。

第1章では高宗18(1881)年閔氏政権が開化政策を開始してから軍乱が起こるまでの国内の状況を概観した。そして、この時期における金允植・魚允中の動向を見ていった。第1節では閔氏政権が対外政策を開化政策へ転換していった経緯を概観し、第2節では開化政策の一環で日本を視察するために派遣された一団について魚允中を中心にまとめ、第3節では開化政策の一環で技術を学習するため清へ派遣された領選使金允植一行と、条約交渉のため清へ派遣された問議官魚允中についてまとめ、第4節では軍乱に関わりのある興宣大院君の軍乱前における動向を概観した。

第2章では軍乱が起きた背景・経過を概観し、軍乱時における金允植・魚允中の動向を見ていった。第1章では軍乱が起きた背景・経過を概観し、第2節では金允植・魚允中の軍乱時における行動を、(1)軍乱のしらせを聞く(2)清国との相談(3)清国派兵軍の到着、に分けて見ていき、第3節では清国軍によって軍乱が鎮圧されてゆく過程を概観した。

金允植・魚允中は軍乱を日本・清国経由で知った。彼らは軍乱の首謀者を昨年起きた李載先事件の残党と考えた。それは、事件の首謀者である安驥泳らの計画と今回の軍乱の様子がほぼ一致しているからであった。彼らは軍乱の報を聞くと、日本を警戒してすぐ清国に出兵を要請した。日本が軍乱を治めるという名目で朝鮮に派兵し、乱党の捕獲・賠償などに干渉するだろうと予想して、まず朝鮮の様子を探り、乱党が解散していなければ清国に派兵すべきであると考えたのだ。一方、清国側も軍乱の報を聞き、軍乱の首謀者を大院君と考えた。そして、清国政府は丁汝昌・馬建忠を派遣し朝鮮を探査させ、さらに呉長慶に兵を引率させ派遣し、乱党を罰することを命じた。清国政府も金允植・魚允中と同様に日本を警戒していた。このように、清国の出兵は金允植・魚允中と清国双方の思惑の一致によって実行されるにいたったと考えられる。


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