新潟大学人文学部

第一次上海事変に関する一考察

渋木 麻子(新潟大学人文学部)

歴史上、「上海事変」といえば、第一次上海事変、第二次上海事変がある。第二次上海事変は、日本軍が国民政府を降伏させようとして、1937年8月13日に進攻を開始し、日中全面戦争へ拡大していった戦闘である。本論文では1932年1月28日に勃発した第一次上海事変を取り上げ、事変勃発前から停戦協定が調印されるまでの考察を試みた。

第一章では第一次上海事変について、事変勃発までの経緯と戦況の推移、および停戦協定締結までの停戦会議を概観した。第一次上海事変勃発の要因は、日本陸軍の扇動によって日中対立が一層激しくなり、その状況に海軍が便乗した形で引き起こされたというものであったといえる。日中両軍の戦闘では、満州事変と異なる中国軍の意外な抵抗によって、長期戦へと進んでいった。日本軍は増援を繰り返し、かろうじて戦闘に勝利することができたが、停戦協定では新たな権益などを獲得することはできなかった。

第二章では上海事変を国民政府の視点から考察し、当時の国民政府の状況と、外交、軍事の政策方針、実際にとった行動を追った。国民政府の政策方針は、1931年9月18日に勃発した満州事変以降の国民政府の対日政策は、抗戦を行わず連盟を通じて解決しようとする不抵抗の方針をとるものであった。この不抵抗方針とは、満州事変の事後処理を指す狭義の場合と「安内攘外」政策全般を指す広義の場合がある。本論文では、この狭義の不抵抗方針が、第一次上海事変における国民政府の実際の行動としてどのように現れたのかを考察し、自分なりの見解を示そうと試みた。国民政府は、蒋介石が「安内攘外」政策を満州事変より継続し行っており、汪精衛もその蒋介石の方針を受けて「一面抵抗、一面交渉」方針を提示した。「抵抗」では、第19路軍を中心とした中国軍の奮闘によって日本に危機感を与えた。「交渉」では、停戦協定において戦闘に勝利した日本に対し新たに権益を与えさせなかった。

以上のことから、蒋介石、汪精衛の掲げた「抵抗」しながら「交渉」するという政策は上海事変では上手く機能したといえる。不抵抗方針に基づいた政策は、第一次上海事変では成功したと考えることができる。


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