新潟大学人文学部

石刻史料からみた北魏前期官制について
―北魏文成帝南巡碑の考察を中心として―

山崎 祐樹(新潟大学人文学部)

北魏の官僚制は第六代皇帝である孝文帝による改革を起点として、その前後に分けて進められることが多い。これは孝文帝の改革によって北魏の官僚制に中国的側面が大幅に導入されたためである。そのため、北魏前期には北続由来と考えられている官職が散見する。中でも、近年注目されているのが内朝の存在である。

第一章では本論で取り上げる内朝について、主にその定義や区分について先行研究を概観し、史料として主に取り扱った「北魏文成帝南巡碑」(以下、南巡碑と略称)が内朝研究に関しての持つ意義に関して述べた。内朝とは皇帝に仕える侍臣集団のことで、皇帝の身辺警護や詔命の出入、内朝に対して外朝と呼ばれる尚書など一般行政機構の監察を行っていたとされるものである。しかし、そもそも北魏前期の史料は不足しており、その実態は不明瞭な点が多い。そのため南巡碑をはじめとする新史料の発見は重要な意味を持つのである。

第二章では南巡碑にみられる北族系と思われる姓氏を主に『魏書』官氏志に沿って整理し、その出身を割り出すことによって、多くが内朝官であると考えられている巡行随行員の構成を探った。その結果、当時の政治状況や族としての力量によって差はあるものの、巡行という限られた人員の中で広汎な人的構成が見られることが分った。また、北魏にとって主にその強大な武力を利用されたと従来、考えられる傾向にあった高車のなかにも、少なくともその上層部においては尚書などの要職につき、その政治に関与していたことを確認した。

第三章では南巡碑に記された内朝官と先行研究で考えられている諸官のうち、「内行」の字を冠する官職、内阿干、幢将の三つについて、私見を加えた。

南巡碑の検討を通して、北魏前期の官僚制が様々な民族からなる複雑で独特なものであることを再確認した。また、北魏前期には後の遊牧民族国家に引き継がれる可寒(可汗)などの称号が見られることが先行研究によって明らかになっている。北魏は従来、考えられている以上により多面的な性質を有した時代であったのであろう。


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