新潟大学人文学部

植民地期京城における都市計画
―市区改正に関する一考察―

樋口 裕子(新潟大学人文学部)

植民地期、京城府では朝鮮総督府や京城府によって都市計画が進められた。都市計画は大きく市区改正と市街地計画に分けられる。市区改正とは、京城市区改修予定計画路線の改修を中心とした道路事業であり、1912年の路線の告示から1937年に朝鮮市街地計画令が京城府に適用されるまで、継続された都市計画であった。市区改正によって、城壁や門の破壊、日本人街の発展、また近代的建築物の築造がなされ、京城府の景観は変化した。こうした市区改正は、1936年の京城府府域拡大に伴い適用された市街地計画令とともに、しばしば京城における都市計画の論点となっている。

市区改正をはじめとした都市計画を論じる先行研究には様々なものがあるが、市区改正に至る背景や、京城市区改修予定計画路線の経過が十分に考察されていないと思われる。そこで、本論文ではこの二点を論点とし、叙述した。史料として、京城府発行の『京城府史』、『京城都市計画資料調査書』、朝鮮総督府発行の『朝鮮総督府官報』、『朝鮮』を使用した。

第一章は先行研究を参考として、第一節では京城府の前身である漢城府の成立を、第二節では開港期における日本人居住の契機を、第三節では植民地期において行われた都市計画を1910年代、1920年代、1930年代ごとにまとめ、同時に京城府府域の拡大についても概観した。

第二章では、市区改正実施の背景を検討するため『京城府史』を使用し、考察した。京城市区改修予定計画路線が道路の拡幅、延長、整備、新設を内容とした事から、第一節では当時の道路が未整備であった状況を確認した。しかしながら、京城市区改修予定計画路線には既に幅員の広い道路も含まれた事から、道路が未整備であった状況以外の改修の要因を続く第二節で検討した。広い幅員の道路には、溝渠を越えて築造された仮家が目立ち、この仮家が道路の幅員を狭めていたとわかった。また、仮家建設を抑止する内部令も守られていなかった事を確認した。

第三章第一節では、『朝鮮総督府官報』と『京城府史』を用いて、京城市区改修予定計画路線の変更過程を考察した。路線の追加や削除、変更を五回経て路線は最終的に47線まで計画された。第三次の計画案では、放射状の道路が削除され、路線数も第一次の計画路線の二倍以上で計画されていた。また、黄金町通や本町通、鐘路、光化門通などの比較的広幅員の道路も路線に組み込まれた事を確認した。第二節では、京城市区改修予定計画路線の経過を検討するため『朝鮮』と『京城都市計画資料調査書』の1927年版、1932年版を用いて、比較・分析を行った。すると、京城市区改修予定計画路線の改修によって道路の拡幅など以外に、電車敷設や舗装、歩車道、街路樹、街燈などの整備が進められた事がわかった。また、歩車道には一定の割合があった事を考察した。

以上のような京城市区改修予定計画路線の改修は、1936年時点で6割程度施行されたに過ぎなかった。しかしながら、京城の景観にはそれ以上の変化を与えたのではないかと考えられる。


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