新潟大学人文学部

日本軍の重慶爆撃
―1940年と1941年の爆撃を中心に―

菊田 玲(新潟大学人文学部)

重慶爆撃とは、日中戦争中に日本軍が中華民国の臨時首都となった重慶に対して行った戦略爆撃である。この爆撃の目的は主に2つある。1つは中華民国の大後方抗戦基地であった重慶を破壊することで中国人民の抗日意志を動揺させ、蒋介石政権を屈服させることであり、2つ目は「援蒋ルート」遮断であった。日本軍は重慶爆撃を「奥地進攻作戦」と呼称し、1938年2月から1943年8月まで実施した。

特に1940年と1941年は日本軍が爆撃による蒋介石政権屈服に力を注いだ年であった。1940年には「百一号作戦」、1941年には「百二号作戦」という作戦がそれぞれ実施された。この2つの作戦は一連の重慶爆撃の中で最も激しいものだった。重慶防空司令部の統計によると、1940年に日本軍が重慶を爆撃した日数は66日間にのぼり、爆撃を行った航空機数は3219機、投下された爆弾は7530発であった。また、日本軍は1940年8月から「零戦」を出撃させて爆撃を強化した。1941年は『抗戦時期重慶的防空』の記述によると、重慶が爆撃を受けた日数は50日間、出撃した飛行機は2180機、死亡者は2469人にのぼった。さらに1941年には「塩遮断爆撃」が実施され、塩の生産地である自貢市も爆撃の標的となった。塩の供給を遮断して中国人民の厭戦気運創出を狙った作戦は1941年特有のもので、日本軍が蒋介石政権屈服に力を注いでいたことが分かる。しかし、最終的に日本軍は目標であった蒋介石政権屈服を達成できなかった。その理由は、石油などの資源を求めて南方に進出する作戦が実施され、次第に重慶爆撃を重視できなくなったことである。

中国側の爆撃に対する抵抗も日本軍が爆撃の目的を達成できなかった大きな原因である。重慶の国民政府は爆撃に対して「消極防空」という方法で対処した。この「消極防空」とは、爆撃にやってきた日本の航空機を攻撃して撃退することよりも、爆撃をいかにやり過ごすかを重視するものである。「消極防空」の内容は、消防・医療組織の整備、防空洞の建設、食糧増産等の取り組みである。特に消防・医療組織の整備、防空洞の建設は爆撃による死傷者の数を大幅に減少させた。「塩遮断爆撃」に対しても、国民政府は製塩所の施設の電動化を進めて塩の供給量を維持するなどの対策を講じた。市民の寄付活動も積極的に行われ、募金は航空機を製造する費用等に充てられた。中国は1940年と1941年の爆撃で多大な被害を被ったが、国民政府や重慶市民は「消極防空」という方法で日本に対抗した。この「消極防空」を実行する中で市民の間に「陪都精神」という一種の愛国主義精神が広まり抗戦態勢を支えた。『抗戦時期重慶的防空』には、日本軍の爆撃に重慶市民が抵抗したことは「抗日戦争の勝利に大きく貢献した」と記されている。重慶市民が「消極防空」という形で日本軍の爆撃に抵抗したことは抗日戦争勝利を中国にもたらすうえで重要な一要素となったのである。


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