新潟大学人文学部

日本の大陸政策と『大陸新報』
―汪精衛政権に関する社説分析―

齋藤 奈々子(新潟大学人文学部)

19世紀、通信や放送が未だ発展していなかった中国社会において、新聞は情報を伝達する、あるいは得るための重要な手段であった。中国で、民衆へ向けて情報を伝えるという近代的な新聞・雑誌が作られ始めたのは1842年のアヘン戦争による南京条約の締結前後からであり、中国人だけでなく外国人の手によっても多くの新聞、雑誌が創刊された。

『大陸新報』は1939年1月1日に日本軍により上海で創刊された邦字日刊紙である。それ以前に上海で刊行されていた個人経営の邦字新聞は、日本軍の言論政策により『大陸新報』に統合された。本論文では、『大陸新報』の成立及び社説に注目し、検討した。『大陸新報』社説には日本国内の政治情勢や租界内の経済問題、主な購読者である上海居留民に対するメッセージなど様々な題材が取り上げられているが、本論文では汪精衛に関する社説を取り上げ、日中戦争期、『大陸新報』が彼の行動、発言をどのように報じ、評価しているのか、考察を進めた。中でも、南京に汪精衛政権が誕生する1940年3月から、彼が逝去する1944年11月までの汪精衛に関する社説を抽出し、先行研究や他の資料と照らし合わせながら分析した。

第一章では、『大陸新報』が発行された上海の概要、『大陸新報』を発行した日本軍のメディア政策について論じ、第二章では、『大陸新報』社説の記述を分析し、汪精衛政権の活動や日本の対中政策について考察した。

それぞれの社説内容を分析した結果、汪精衛の発言を日本軍部の都合のいいように解釈していたのではないかと思われる記述や、汪精衛を「新支那唯一の指導者」と表現するなど汪精衛政権を過大に評価する記述、そして蒋介石の重慶政権に対する攻撃的な記述が顕著に見られた。また、汪政権と蒋政権を比較して、汪政権を可とすべきであると論じている箇所もいくつか見られた。しかしながら『大陸新報』社説は汪精衛の動きに対し常に肯定していたわけではなく、時に汪精衛を「理想主義者的」政治家であるとし、現実的な意見として『大陸新報』側の主張を述べる社説や、汪精衛の運動が未だ民衆に浸透していないと厳しく指摘する社説も見られた。

『大陸新報』は基本的には内閣情報部が作成した「支那新中央政府成立ニ関スル世論指導要綱」、「支那新中央政府成立に関する新聞記事取扱方針」等の方針に沿って、汪精衛の「和平救国」運動を伝えた。また、日本軍が汪政権を全面的に支持することを伝えることで、上海日本人居留民に対し汪精衛政権の正当性及び「東亜新秩序」建設の重要性を認識させようとしたのであった。


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