新潟大学人文学部

呉の孫権による対外政策について
―夷洲・亶洲使者派遣を中心に―

玉田 美紀(新潟大学人文学部)

後漢末期の争乱を経て、魏・呉・蜀が並び立つ三国時代が幕を開けた。三国並立後も、国を存続させ他勢力と対立する上で、対外政策は欠かせなかった。孫呉政権は、魏や蜀と同盟を結び、遼東の公孫氏や扶南に対しても海を渡って積極的に使者を派遣している。本論文では、孫権による対外政策について、特に関心の強い夷洲・亶洲への使者派遣を中心に、目的や意義について自分なりの見解を示そうと試みた。

第一章の第一節では、呉の創始者とされる孫堅の時代から、229年に皇帝となり使者派遣を盛んに行った孫権の時代にかけての孫呉政権の内部事情を追い、使者派遣の動機となる政権内の問題を探った。第二節では、魏と蜀に対する政策・関係を考察した。

第二章から、第一章で見た国内情勢を基に、孫権による対外政策について考察した。第一節では遼東の公孫氏政権への使者派遣について、概観を行った後、その目的について、主に馬の獲得と魏の勢力をけん制する目的があったと考察した。続いて、意義については、海上交通を切り開いたことや、交易によって遼東の文化が江南へ、江南の文化が遼東へ伝わる文化的な貢献を挙げた。第二節では、高句麗との関係について追い、馬の獲得の目的があったと考えた。第三節の第一項では孫権が南方に勢力を伸ばすために士氏政権に近づき、交州を平定した様子から、扶南への使者派遣に至る動機を追った。第二項において、扶南への使者派遣の時期と実行人物について考察し、先行研究を踏まえて、孫権が呂岱に南方の事情を任せ、中央から中郎康泰が派遣され、呂岱の指揮の下従事の朱応が随行し、229年頃に使者派遣が行われたとした。第三項では、目的と意義について追い、目的については、人員の獲得、文化的・経済的交流の促進、三国の均衡の保持、当時南方においても争うことのあった蜀への意識があると考察した。意義については、南方の知識の増進、異物志の編纂や仏教文化が繁栄したといった文化的影響を考えることができるとした。

第三章においては、夷洲・亶洲への使者派遣について、まずは夷洲・亶洲の場所の比定を行い、先行研究を踏まえ、夷洲を台湾、亶洲を沖縄と結論付けた。また、ここでは『三国志』陸遜伝に夷洲と亶洲ではなく夷洲と「朱崖」とあることについても触れた。続いて目的と意義を考察し、目的については、他の使者派遣との比較も兼ね、人員の獲得、日本と思われる新しい土地への接近とその土地を領土とし、呉の領土の拡大や新しい市場として考えていたのではないかと考察した。また、この使者派遣についても、魏だけではなく蜀への意識に重きが置かれていたことも考えることができた。意義については、現在の日本と思われる国への接近や、台湾の発展と、台湾と中国本土の経済的、文化的な交流が促されたこと、今までの使者派遣と同様に、海上交通の発展や、造船業の発達への貢献があると考えた。三国時代と言えば、魏・蜀・呉に焦点が当たるが、遼東の公孫氏や南海の士氏なども対外政策の一部となり、火を交えて戦う以外にも「外交」という名の争いがあったことがわかる。孫権による対外政策の一連について考察していく中で、政策の一つ一つには、三国の勢力均衡や、他勢力を意識した目的があったが、その他にも、呉の弱点を補って国力の増強と、経済文化の発展を目指す目的や、呉の独特の地位を築き上げる目的で使者派遣を行ったことも考察することができた。


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