新潟大学人文学部

17世紀の日記から見る両班の葬祭儀式
―忌日と名節の四代奉祀を中心に―

金子 綾乃(新潟大学人文学部)

朝鮮時代に官僚階層を席巻していた両班は「奉祭祀、接賓客」を生活信条として重視した。本稿では、17世紀に光山金氏24代―金坽が40年に渡り私生活を記録し、祭祀や賓客についての記述が特に多い『渓巖日録』に書かれている事例を取り上げて、17世紀の両班がどのようにして忌祭・名節・四時祭を執り行ったのかを見ていく。

まず二章では史料として使用する『渓巖日録』と、その著者である金坽の紹介をする。史料として使用する『渓巖日録』は金坽が1603年〜1641年にわたりほぼ毎日書いた日記である。筆者である金坽は1577年8月10日(陰暦)、漢陽の鋳字洞で生まれ、坽の本貫は光山、字は子峻、号は渓巖である。父は1577年当時朝廷に仕えていた富倫、母は平山申氏である。

三章では忌日祭祀について検討した。祭祀は直系男子が4代祖分の祭祀を代表となってとりおこなうものであるが、17世紀は親族内で祭祀を持ち回りで行う輪回方式がとられていた。このため、輪回の持ち回り範囲・参加者は坽を含め各先祖の4代孫内の男子であった。また。4代祖内の祭祀を行なうが、これは父系先祖に限ったものではなく、必要があれば外家の先祖への祭祀も行っていることがわかった。また、女性は祭主の都合によって代行を務めていたため、条件つきでの参加が許されていたようである。

四章では、名節に行われる祭祀について考察した。名節の祭祀も4代祖と外家を対象に祭祀を行なっており、4代祖の祭祀は輪回で行われ、祭祀は持ちまわり範囲・参加者は各先祖の4代孫内にあたる人間で構成されていた。忌日祭祀に参加していた女性の姿は日記からは確認できなかった。

五章では四時祭について検討した。2・5・8・11月の吉日に高祖以下を祭る「四時祭」は別名「時祭」「時亨」とも言われる。一方、3月上旬に5代以上の祖先を祭る「墓祭」「墓祀」という祭祀もあり、この祭祀も別名「時祭」「時亨」と言われる。日記を見ても、双方の祭祀は混同されているようで、3月上旬の「墓祭」は父母や曽祖父母を対象としており、5月の「墓祭」と8月の「墓祭」は名節の祭祀を行っていると思われる。各祭祀を明確に認識していなかったようである。

17世紀に書かれた『渓巖日録』から、禮安居住の光山金氏は、4代祖の祭祀を4代孫内の男子で輪回して祭祀を行ない、参加者も4代孫内の男子であった。また、必要があれば外家の祭祀も行っていたが、光山金氏が行なったというよりも、金坽に限って見られると思われる。女性も祭主の都合によって祭祀へ参加していた。四時祭は、祭祀の趣旨を明確に認識していなかった。 このように、変化過程にある時代であるため、輪回が行なわれ、女性が条件付で参加することが容認されていた。

2010.2.19


2009年度卒論タイトル Index