新潟大学人文学部

福島県送出の満州開拓移民

松本 理沙(新潟大学人文学部)

福島県は、満州移民送出数が全国3位(約12,700名)であり、この数字は、同県が日本の満州移民事業に大いに関わったことを意味している。しかし、同県の満州移民について体系的にまとめた研究は、私見の限り見られない。本稿の課題は、福島県における満州移民事業の展開について、史料を元に事実検討を行い、その全体像を明らかにすることである。

第一章では、満州移民の概略を時系列に沿って検討し、その中で移民政策や法律、移民関係機関の役割についても触れた。また、開拓団の送出方法や種類を10個に分類し、それぞれに考察を加えた。

第二章では、福島県の市町村刊行の地方史や、そこに所収されている史料、また当時の 新聞記事や回想録から、満州移民に関するものをピックアップし、同県における移民事業の展開を明確にしていった。福島県では、養蚕業の衰退と冷害・凶作の発生→慢性的な農村恐慌、小作農の増加→耕地不足問題と小作争議頻発、経済更生計画の一環として満州移民が推進された。日本政府→福島県→地方事務所→市町村→地域有力者→市町村民という順で移民計画が伝播、また移民希望者は誓約書を提出し、「福島県満州開拓訓練所」にて1ヶ月間訓練、その後新潟港を経由して満州へ渡った。県は「送出番付」等を作成、各市町村に対しさらなる移民送出を煽っていた。1932〜36年は試験移民期、1937〜40年が最盛期、1939年からは分郷移民が主軸となる。1942年以降は主な移民対象が青少年に移行、食糧増産のために報国農場を建設した。終戦後は特徴的な引揚げをした例(現地越冬、炭坑越冬等)もあるが、多くの開拓団は都市部へ移動、劣悪な衛生状況により死亡者が多発した。

第三章では、福島県が送出した最大の集団開拓団である、第七次北学田開拓団における事実検討と考察を行った。同団の入植初期の営農は劣悪であり、労賃高騰問題から大赤字であったが、1940年の北海道農法導入により営農状況は劇的に改善した。これが、満州の全開拓団に北海道農法を広める足がかりとなった。引揚げ時には周辺の開拓団員と共に、真冬の中チチハルへ移動したが、食糧不足や疫病等により団員の半数以上が死亡した。

第四章では、福島県送出の分郷開拓団である、第九次太平開拓団・呉山開拓団における事実検討と考察を行った。送出元の伊達郡は、福島県内で最も小作争議が頻発しており、町村長会は小作農に分郷移民という道を示し、小作争議から目を逸らさせようとした。両団の送出元は、県内でも毎年トップクラスの送出数を維持し、団の営農も順調、呉山開拓団内には報国農場が建設された。終戦後の両団は、周辺の開拓団と共に現地で越冬した。栄養失調や発疹チフス等で多くの死亡者を出したほか、残留孤児や残留夫人を生み出した。

今回、満州移民の全体像に関する先行研究と、福島県内の地方史や史料、回想録等を同時に用いることで、同県送出の満州移民について多角的に分析し、その実態をある程度再構築することができた。福島県送出の満州移民は、現在まで県内においてもあまり取り上げられず、体系化もされていないが、日本の移民政策に大いに影響を与えたことが分かった。日本の満州移民事業を再考する上で、福島県送出の満州移民は、重要な研究対象となるのではないだろうか。

2010.2.18


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