新潟大学人文学部

北魏における廃仏について
―魏収の視点から―

吉田 衣里(新潟大学人文学部)

中国は歴史上、北魏太武帝の廃仏、北周武帝の廃仏、唐武宗の廃仏、五代後周の世宗の廃仏という、四度の大きな「廃仏」が起こっている。これらは「三武一宗の法難」と総称されており、それぞれ内容も規模も大きく異なっている。本論文ではこの中でも太平真君7年(446)から7年間に渡って行なわれたとされる北魏太武帝による廃仏事件を扱った。そして、『魏書』「釈老志」を記した魏収の伝を見た上で、彼の立場や経歴が「廃仏」を書くにあたってどのように影響を与えたかということについて考察を行った。

第一章では、北魏の廃仏について、まず「釈老志」に記された廃仏の経緯を追い、仏教制度及び当時の状況、南朝との性格の違い、地域間の差、他の廃仏との性格の違いなど北魏仏教を述べる上で触れておくべき要素についてまとめた。

第二章では魏収の生涯を追い、また、『魏書』が成立した当時、その評判があまり良くなく、「穢史」とも評されたことについて、『北史』の魏収の伝から、実際どのようであったかを見ていった。

第三章では魏収と仏教の関係についてより詳しく見、彼の家庭に仏教の文化が浸透していたことに触れた。また、共に漢人官僚であった崔浩と魏収を比較することによって、魏収がどのような立場であったのかを明確にした。彼らは有能でプライドが高く、文に秀でているところなどが共通している一方で、仏教の捉え方が全く異なっていた。これらのことは彼らの育った環境や時代背景に拠るところが大きいと考えられる。

本論文では、廃仏の詔書の視点が中華的な考え方に基づいていることに着目し、崔浩が北魏廃仏において重要な役割を果たし、太武帝に対しても多大な影響を与えたと結論付けた。このことから塚本説や佐藤説の、「漢人官僚である崔浩が北魏廃仏の中心人物である」という説を支持した。また、恭宗が早死にし、太武帝もまた殺されるという最後を迎えたことを魏収が「釈老志」に記さなかったのは、奉仏一家に生まれた魏収が「仏教は皇帝に対してあだなすものである」という文脈になることを避ける為に敢えて省いたのではないかと推測した。これらのことからも、魏収が仏教に対して肯定の態度を示しており、仏教を擁護する立場にあったとした。また魏収は「釈老志」を拓跋政権下の仏教のあり方への批判で結んでいるが、これは『魏書』が記された当時の、北斉仏教教団による栄達への苦言も含まれていたのではないかと推測される。このように、魏収は仏教に対して素養と関心を持っており、『魏書』を著す際にもそのことが多分に発揮されていた。

2010.2.19


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