新潟大学人文学部

遅子建研究
―「秧歌」、「香坊」、「逝川」の分析を中心に―

新井 ちひろ(新潟大学人文学部)

子建(1964〜)は黒龍江省出身の女性作家である。遅子建の小説には故郷・黒龍江省の大自然と、そこで生活する庶民の姿が描かれており、この濃厚な郷土色は遅子建小説の最大の特徴とも言える。そしてその中に、遅子建は自身の生命観を描き出している。本論文では、現代中国の文壇において自己の文学を創作し続け、多大な評価を受ける作家、遅子建を研究対象とした。遅子建小説の特徴の中でも、生命観及び遅子建の描く女性登場人物に論点を絞り、作者の創作意識に迫った。

第一章では遅子建の経歴をまとめ、特に遅子建の作家としての成長経歴に存在した特殊な生活境遇に注目し、作家・遅子建の誕生のきっかけを見た。また、遅子建小説作品群の分類として多く用いられている“童話世界”と“神話世界”を示し、“神話世界”作品に生命観の表現が見られることから、“神話世界”作品に分類される「秧歌」(1992)、「香坊」(1993)、「逝川」(1994)を本論文の研究対象とした。

以下、第二章では「秧歌」、第三章「香坊」、第四章「逝川」と、章ごとに作品分析を行った。女性については、小説に登場する女性を、周囲の人物との関係を考えながら考察した。その際、人生を「かき乱す」事柄に彼女たちがどう対応するのか、その時彼女たちに「もろさ」は現れるのか、「宿命」から逃れることはできないのか、という点に注目し、遅子建の描く女性像を明らかにすることをねらいとした。また、生命観については、登場人物の生と死、及び物語の舞台とそこに表されたモチーフをもとに考察した。

まず、女性についてである。本論文で取り上げた三作品に登場した女性たちは、そのほとんどが辛い出来事に遭遇していた。そしてその共通点として、その生活を「かき乱す」事柄が男性によって引き起こされている点が挙げられる。しかし、女性が男性に影響され生きる姿だけでなく、男性が女性に影響され生きる姿も描かれている。つまり遅子建は女性登場人物の苦難を描く中に男性の苦難をも描き出しているのである。遅子建小説に登場する女性は女性であることの悲劇を象徴するのではなく、そこから「宿命」に生きる人間の姿、人間の強さと弱さを表現しているのである。

次に生命観についてである。「秧歌」からは、どんなに賑やかな人生であっても、必ず終わりは訪れる、それを承知した上で希望を持ち、生きていくのである、ということが読み取れた。「香坊」には、生命は廻り廻るものであり、この循環は永遠に続いていくものである、という生命観が表現されていた。「逝川」からは、人間は時の流れに従って老いゆくものであり、老いゆく命は次の世代を生み出し、これが不断の時の流れの中で繰り返され、時代が繋がってゆく、という考えが読み取れた。これら遅子建の生命観には、繰り返される自然の営みから感じ取った、生命の循環が表現されている。

女性主義の主張もなければ、政治的主張をも含まない、遅子建の文学は純粋で素朴な「人」の物語である。中国東北で生活する人々の姿を、彼女は我々に見せてくれる。そしてその中に、人生や生命について、黒龍江の大自然に育まれた独自の視点で描き出すことに成功している。彼女の作品が読者を引き付ける要因は、彼女の文学に表現された未来への希望かもしれない。

2011.2.8


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