新潟大学人文学部

国民保導連盟について

遠藤 和恵(新潟大学人文学部)

1948年8月15日に朝鮮半島の南半部に樹立された大韓民国政府が徹底した反共主義を掲げる中、翌年4月には反体制的思想犯や左翼転向者に対する善導の方法として、左翼勢力に対する統制と懐柔を目的とした国民保導連盟が結成された。当初、左翼転向者の保護・指導(保導)を掲げて結成された保導連盟だったが、50年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると李承晩政権下で保導連盟関係者処刑計画が準備され、保導連盟事件と呼ばれる集団虐殺が行われた。本論文では国民保導連盟の報道内容に焦点を当てて、韓国社会において保導連盟がどのように認識されてきたのかを明らかにすることを目的とした。さらに、現在も続く保導連盟事件の真相究明活動の過程を整理し、韓国社会の保導連盟に対する反応や認識の変化についても考察した。

第1章では、先行研究や当時の新聞記事を基に1945〜50年における国民保導連盟の創設背景とその活動内容について述べた。また、当時の新聞報道から読み取れる韓国社会の保導連盟に対する認識についても言及した。

第2章では、朝鮮戦争時の保導連盟事件について述べた。また、当時の新聞記事や日記から韓国社会の保導連盟に対する認識を考察し、戦争勃発によるその認識の変化について言及した。

第3章では、1960年から現在にかけての保導連盟事件に対する真相究明過程について、国会の調査委員会、遺族会、真実・和解のための過去史整理委員会の活動を取り上げ、それぞれの活動内容と当時の新聞報道を紹介した。

以上の考察から保導連盟に対する韓国社会の反応は、朝鮮戦争以前は表面的には保導連盟を肯定し積極的に加盟を促していたが、戦争勃発を機にそれが一変し、保導連盟員を虐殺の対象と見なすようになった。また、戦争後も韓国社会全体が保導連盟を共産主義勢力の一つであり朝鮮戦争時の敵であったと見なしていたため、長い間虐殺事件の被害者とその遺族に対する差別行為が続いてきた。4・19革命後は国会調査委員会や各地の遺族会が真相究明のために活動し始め、虐殺事件に対する韓国社会の関心は高まっていったものの、結局のところ保導連盟員に対する否定的な認識は変わっていなかった。近年になってようやく真実・和解のための過去史整理委員会が発足し、国民保導連盟事件の実態が明らかになったことを受けて盧武鉉大統領(当時)をはじめ韓国社会の反応も変わってきたようである。しかし、真実・和解委員会の活動や保導連盟員に対して否定的な認識を持っている人々が未だ多いのは事実である。真相究明のための活動を継続させ、着々と明らかにされていく虐殺事件の実態に伴って保導連盟に対する韓国社会の認識も変化していくべきではないだろうか。

2011.2.14


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