新潟大学人文学部

1880年代〜1910年代初期の京城における在朝日本人社会について
―京城居留民団の活動を中心に―

信田 奈那子(新潟大学人文学部)

1876年の日朝修好条規の締結により、日本人が朝鮮に移り住むようになった。京城(現在のソウル)において一般の日本人の居住が許されるようになったのは1884年のことである。その後、居留地の拡大を背景として京城居留民団が設立された。本論文では、1885年から1914年にかけて存在したこの京城居留民団という団体に焦点をあて、その成立や拡大過程、自治をめぐる統監府・総督府と在朝日本人の対立など、任意団体期と法人団体期に分けて京城居留民団の歴史について詳しく考察することを試みた。

第1章では、任意団体期の京城居留民団の成立過程や活動内容、中心人物について考察した。1885年に居留民総代役場を設立したのが京城居留民団の始まりであった。居留民規則などの発布により、それまで領事館から委任された業務を行なっているに過ぎなかったが、領事の監督を受けつつ居留民の公共事務を自ら処理するようになっていった。この時期の居留民団は、学校の新築、道路の改修など居留地全般に関わることを一から整備し、自分たちにとって住みやすい環境を整えていった。また、居留民団の民長や議員の多くは、一攫千金を夢見て朝鮮に渡り成功した商人たちであることがうかがえた。民長や議員は居留民の代表者として相当の地位を持っていたため、派閥争いが展開されることも少なくなかった。

第2章では、法人団体期の京城居留民団の拡大過程や活動内容、議員選挙の様子、自治をめぐる対立について考察した。1899年以降、法人化運動が行なわれるようになり、ようやく朝鮮に居ながら日本の国内法で認定された権限を持つことになった。この時期の活動は、在朝日本人の増加に対応するための現状の改善で手一杯であった。徐々に歳出も増え、居留民の負担は大きくなり、居留民団の拡大に限界が表れ始めたとも言える。1908年には、居留民団の自治をある程度認めてきた方針とは一変し統監府は民長官選令を発表したが、居留民団は自らの歴史を汚すものだとしてこれに猛反対した。居留民団解体をめぐっても、在朝日本人らはそれまでと同様の権利を維持しようと最後まで自治制の存続を求め続けた。

京城居留民団は領事館や統監府、総督府と従属関係にあり、その政策に左右されつつも、京城の在朝日本人を代表する機関として教育・土木・衛生など居留地の公共事務を執り行ってきた。統監府時代には民長官選問題、総督府時代には居留民団廃止をめぐって対立があり、京城居留民団の歴史は対立の歴史でもあったと言える。統監府や総督府は、朝鮮内で絶対の権力を持つための政策に居留民団を利用しようとし、自治の削減も厭わない姿勢を見せた。その一方で、ようやく自治が認められ、在朝日本人社会を拡大させてきたことが在朝日本人にとってのアイデンティティであった。この両者の利害関係の衝突が対立として表れたと考えられる。

2011.2.17


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