新潟大学人文学部

金庸武侠小説研究
―『射鵰英雄伝』の分析から―

綿貫 恵(新潟大学人文学部)

金庸(1924〜)の武侠小説は、伝統的な武侠小説の手法や世界観を引き継ぎ、民衆を楽しませると同時に、知識人からも近代小説として高い評価を受けている。本論文では、金庸の代表作のひとつである『射鵰英雄伝』を題材に金庸の小説の特徴を分析し、商業的に成功しながら同時に多くの知識人からも高い評価を受けている要因を考察した。

第一章では、金庸の略歴および全作品のタイトル等を紹介し、金庸小説中の『射鵰英雄伝』の位置づけを述べた。

第二章では、『射鵰英雄伝』に明確な善と悪の対立構造が存在したことから、金庸が娯楽的な小説を志向したと述べた。主人公郭靖と敵対した金国の支配者層は一貫して単純な悪役として描かれた。また、物語前半においては勇猛果敢な英雄として描かれていたジンギスカーンは、郭靖との対立を経た物語後半において、残虐な悪役に転落した。『射鵰英雄伝』における善悪の描かれ方は郭靖の視点からの主観的なものなのである。善悪の対立を分かりやすく描くことは、作品に強いコントラストと起伏のあるストーリー性を与え、大衆小説として商業的成功を収めることに有効に働いた。

第三章では、『射鵰英雄伝』の現実世界との関わりやその批判精神について検討した。『射鵰英雄伝』における蒙古の民族内での対立や、ジンギスカーンの描かれ方からは、金庸自身が青年期に経験した抗日戦争時代の中国の政治や、国民党と共産党の内部対立、また執筆当時の共産党および毛沢東の政治に対する批判が読み取れる。更に、反礼教的な人物である黄薬師の描写を通して、中国の伝統世界で当然のように受け入れられている礼教としての儒教に疑問を投げる一方で、五四新文化運動での儒教批判への反発も存在していることを述べた。これらの現実世界へのメッセージからは、金庸がその小説中に救国、民衆啓蒙の意識を込めていたことが伺える。これらの意識の存在や、作品から現実社会への批判的な主張を見出せる点を、知識人たちは「近代性」として高く評価したのである。

以上から、金庸の武狭小説には、伝統と近代の共存、娯楽性と政治性の共存、商業性と文学性の共存が成立している。一見して相反する多くの要素を内包している点に金庸小説の画期的価値が見出せるのである。金庸の小説を論じるにあたっては、中国近現代小説で主流となっている、現実世界に即した小説の社会性や啓蒙の意識を高く評価しようとする視点から脱することが必要である。多くの要素を内包することを認めたうえで、個々の作品が執筆された背景に目を向け、その文学的工夫や努力、作中にこめられた主張などを見出すべきなのである。

2011.2.14


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