新潟大学人文学部

1910年代における日本人の内モンゴル研究

鈴木 麻美(新潟大学人文学部)

本論文では、その地理的状況から中国、ロシア、日本の勢力争いの地となり、常に不安定な位置に置かれていた内モンゴル地域の、日本における研究の歴史を追った。1910年代の日本における内モンゴル調査機関、またそれら機関が行っていた調査内容を検討することにより、当時の日本政府がどのような視点で内モンゴル地域を捉えていたのか、内モンゴルという地にどのような価値を見出し、研究を行ったのかを明らかにすることを目的とした。

第一章では日本における内モンゴル研究の歴史を追った。日本において内モンゴルについての調査、研究がなされていく過程を、調査、研究が行われ始めた明治期以降から1940年代までの期間を概観した。さらに、1910年代の調査資料や報告書に「東モンゴル」、「東部内モンゴル」といった地域区分が用いられた背景や、実際これらの名称が用いられた地域はどのような地域を指していたのかを明らかにした。

第二章では、1910年代に作成された調査報告書、刊行物の調査内容に焦点を当てた。ここでは、それぞれの刊行物から「東モンゴル」、「東部内モンゴル」の地域範囲について触れた個所を取り上げ、これらの地域範囲の定義づけを検討した。当時の日本は、内モンゴル地域において、ロシアとの勢力範囲確定のために関東都督府陸軍部を中心として地誌作成につとめていた。「東モンゴル」、「東部内モンゴル」という地域名は、日本が内モンゴルの地誌作成上、便宜的に用い始めた地域名であり、そのため1910年の時点ではこれらの地域の定義は定まっておらず非常に曖昧であった。

さらに第二章では、1910年代に作成された調査報告書や資料をもとに、内モンゴルにおける畜産業に関する記述を検討した。1910年代に行われた調査資料や報告書には、内モンゴルの牧畜に関する記述が多く見られた。当時日本は自国の食糧供給を国内で十分に確保することができず、勢力拡大を目指していた「東部内モンゴル」において、水稲、羊肉、羊毛などを大規模に生産する事を計画したのであった。このような背景から、当時の日本は内モンゴルにおける畜産資源に注目し、家畜の改良や試験場設置を促す報告書が数多く作成されたと考えられる。

以上日本における内モンゴル地域の調査、研究を検討し、考察を行った。内モンゴルの調査報告書が次々に作成された1910年代には、日本はロシアとの間で幾度と交渉を重ね、それまで存在しなかった「東部内モンゴル」という地域範囲を生み出した。また、調査報告書からは、当時の日本が勢力拡大を目指す内モンゴル地域において、日本国内への畜産供給を確立しようとした。1910年代に作成された内モンゴル地域の調査報告書からは、当時日本が抱えていた問題や、大陸進出のより具体的な方針の一部を垣間見ることができるのである。

2012.3.5


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