新潟大学人文学部

日本の朝鮮侵略に対する明朝の対応について

綿貫 希(新潟大学人文学部)

本論文でいう日本の朝鮮侵略とは、1592年から1598年まで、豊臣秀吉が動員した日本軍による朝鮮侵略戦争である。秀吉は日本国内統一をとげた後、さらに明を征服することを企て、まず朝鮮に帰服と明への先導を求めた。しかし朝鮮がこれを拒否したため、1592年4月に日本軍が朝鮮へ進撃し開戦となり、同年6月には朝鮮の援兵要請に応じた明軍の出動によって明と日本の交戦となる。1598年の秀吉の死による日本軍の撤退により、戦争は終結する。本論文では、この戦争に対する明朝の動向、政治の状況を16世紀の東アジア国際秩序と関連させて考察する。

第一章では政策決定の前提となる明朝の対外政策についてまとめる。16世紀、世界的に交易活動が活発化する中で、伝統的な中国の冊封・朝貢体制は弛緩し、新しい東アジア国際秩序が築かれつつあった。従来、周辺諸国は利害をもって軍事的・経済的に優位な中国と「封貢」関係を結ぶことで東アジアにおける安全保障を得てきた。しかし、征明を掲げて朝鮮侵略を行った日本にとって、中国との関係は、侵略可能な、対等な外交・軍事関係であったと考えられる。

第二章では第一次戦役における明朝の対応を考察する。朝鮮への援兵派遣後、早くから明日講和交渉が行われる。日本と直接交渉を行った沈惟敬の朝廷への復命から明の史料では「日本が中国の威を畏れて罪を悔い、封貢による和平を求めている」という。しかし、明側でも財政難や兵の士気の低下から和平を望む要因は多くあり、政府は和平路線をとった。朝廷では講和条件の「封貢」をめぐる論争が起こり、多くの和平・封貢反対意見が出された。しかし、皇帝や政府は第一章で述べた従来の東アジアの国際秩序の崩壊という状況を理解しておらず、「封貢」や「日本国王冊封」のみで戦争の解決が可能と考えていた。講和交渉は、明が講和のために秀吉の「冊封」のみを認めるという結論を出し、これが秀吉の講和条件とは食い違っていたために講和の決裂と言う結果になる。

第三章では講和交渉失敗後の第二次戦役における明朝の対応を考察する。前役の「封貢」による講和交渉の失敗から、政府の方針は主戦となる。主戦派は中国を中心とする東アジア国際秩序の枠組みの中で日本との関係を調整するのではなく、日本の侵略性を認め、中国の安全のために戦いは必須と考えていた。しかし、朝廷では主戦派と講和派が対立しており、論争は続いていた。また、朝鮮派遣明軍の現地指揮官には戦意喪失があり、指揮官の独断で日本軍との撤兵交渉が行われるなど、明軍の意見は不統一であった。第二次戦役においても、冊封・朝貢体制の崩壊という現実の上に立って日本との関係を考え、防衛体制を固めていくことは、依然として広く受け入れられるものではなかったのである。

2012.3.1


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