新潟大学人文学部

1960年代、日本におけるプロレタリア文化大革命研究

小黒 心子(新潟大学人文学部)

1949年10月1日に中華人民共和国が成立して以来、中央人民政府主席となった毛沢東は1958年に重工業生産を優先する「大躍進運動」を行ったため農業生産は停滞し、中国全土は食糧難に陥った。そこで劉少奇らによって「調整政策」が開始された。しかし毛沢東は劉少奇を「党内の資本主義を歩む実権派」であるとして、1966年、「黒五類」と呼ばれる人々への批判を開始した。この運動を「プロレタリア文化大革命」といい、紅衛兵と呼ばれる多くの学生が動員され、毛沢東が死去する1976年まで続いた。本論文では、文革期の日本の新聞や中国研究者に焦点を当て、日本の「一般の人々」や「知識人」が中国で起こっている文革の実態やそれに至る過程をどこまで理解し、どのように捉えていたのかを検討した。

第1章では、「大躍進運動」から文革闘争に至る歴史的流れを概観した。

第2章では、1966年5月1日から1976年9月10日までの『朝日新聞』を分析対象とし、考察を加えた。『朝日新聞』の情報源は、壁新聞を情報とする北京・香港特派員と中国共産党中央の管理下に置かれている新聞や雑誌であったため、『朝日新聞』の記事の傾向として文革を支持するものが多くなることは必然的である。しかし朝日新聞社内部でも本社の記者が文革を批判的に捉える一方、現地特派員は支持する立場をとるなど文革の見方に相違があった。また『朝日新聞』は1966年5月の時点では文革を「整風運動」と記載していたが、同年6月になると毛沢東と劉少奇との路線政策上の相違から発生した「権力闘争」とする見方を強め、同年8月には毛沢東・林彪派と劉少奇・鄧小平派との「指導権争い」と捉えていた。『朝日新聞』は文革当初から毛沢東の死去まで文革一連の流れを報道し続け、その一挙一動に注目し多くの記事を掲載し、迅速かつ正確な報道を行っていた。

第3章では、文革礼賛派の1人である安藤彦太郎を例にあげ、安藤の活動・体験を追い、文革を礼賛した経緯について考察した。安藤は学生時代に「支那語」を学び、中国留学生との交流を通して「中国」を肯定的に捉え始めたと考えられる。日本において中国語は、1870年代から1945年まで「特殊語学」や「戦争語学」として軽視されていた。また「五四運動」や「一二・九運動」は、当時の日本の新聞機関によって不正確に伝えられていた。安藤は、こうした日本人による中国に対する「見そこない」が文革においても行われていると批判した。そして文革について、当初は否定的に捉えられることもあるがその意義が次第に明らかになることで批判する者もいなくなるとして、文革を礼賛する立場に立ったと考えられる。

本論文では、文革期の日本において文革を礼賛した人物には、実際にその時代に中国に赴き、文革を自らの眼で見たという共通点があった。しかし彼らの行動は中国共産党中央に監視・制限されていたため、文革の「真実」を見たとは言い難く、彼らが見た文革は中国共産党の意向が強く反映されたものであったと考えられる。そしてこの「情報の制限」が、当時の日本の新聞や中国研究者の間で文革を礼賛する傾向が強かった理由の1つであると言える。

2012.3.5


2011年度卒論タイトル Index