新潟大学人文学部

中国における戸籍管理制度
―中央の政府と内モンゴル自治区の事例と共に―

倪 舒怡(新潟大学人文学部)

従来、中国において戸籍は、徴税、徴兵のために用いられてきたが、現代の中国では都市住民と農村住民を分離する政策として役割を果たしている。つまり、都市住民には都市戸籍、農村住民には農村戸籍が与えられ、農村から都市への移動・戸籍変更が厳しく制限されてきた。そのため、都市住民と農民住民の待遇の差は拡大し、それは経済格差のみならず、両者の生活習慣や価値観までも変化させた。本論文は、中国中央政府および公安局によって制定された「条例」、「法案」を日本語訳にした上で、戸籍管理制度の改革過程について分析し、さらに「内モンゴル自治区」に焦点を当て、民族区域における戸籍管理制度の変遷について検討した。

第1章では中国の「戸籍登記条例」が制定される前の「戸籍」の意義および概要について述べた。また、戸籍に関する中国法の用語には日本法と異なる部分があるため、戸籍管理に関する重要な用語の意味について説明をした。

第2章では戸籍管理制度の形成期(1949年〜1957年)について検討した。戸籍管理制度の土台は中華人民共和国の誕生(1949年)以降、1957年までの間に形成された。この時期の戸籍管理は、単に公民住居の現状、変更の登録を求めるものであり、都市・農村を問わず、移動や移住を制限するようなものではなかった。一方、この時期、内モンゴル自治区においても、自治区公安局によって戸籍管理業務が整えられた。

第3章では、1958年1月に制定された「中華人民共和国戸籍登記条例」によって、中国政府が人々に移動を厳格に統治する過程を追って見てきた。中国では、1958年から1977年までの間に、「農村戸籍」と「都市戸籍」が厳格に区別され、都市と農村では全く異なった社会が構成され、異なった社会的保障と待遇を受けるという二重社会構造が形成されたのである。一方、内モンゴル自治区では、大躍進によって人口が大きく変動し、戸籍管理業務では一時的な混乱があったもの、全国の戸籍管理業務と同様、戸籍登記制度によって、人々の移動が厳しく制限されてきた。

第4章では、改革開放期(1978年)から現在に至るまでの戸籍管理制度の緩和政策について見てきた。1980年代、改革開放により、沿海地域に活発な経済活動が行われるようになり、それに伴って大量な労働力需要が生じた。そのため、農村部から都市部へと人口の移動が始まった。当初、このような動きを「盲流」として規制の対象としたが、徐々にその労働力が評価されるようになり、農民労働者の「暫住戸籍」を認めることとなった。暫住制度の改革に追う形で、戸籍制度自体も一方大きく変革を遂げることになったのである。

以上、中国における戸籍管理制度の変遷、および改革について検討した。戸籍管理制度は、1970年代まで中国の政治的・経済的な状況変化に応じて、人口の移動をコントロールする政治手段であって、国家戦略の達成に一定の役割を果たしてきたと言える。近年、戸籍管理制度に関する制度的規制が緩和され、戸籍管理制度によって人口移動を抑制する中央政府の姿勢が変化しつつある。しかし、長年にわたって、二元戸籍管理制度に基づく、都市と農村の二元社会の間に生じる大きな格差を埋めることは至難である。今後の経済発展のために、また、格差社会という問題を解決するためにも、戸籍管理制度の見直しは長年に渡って課題になるだろう。

2012.3.5


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