新潟大学人文学部

保定陸軍軍官学校
―清末民初の軍制改革と保定―

和田 結衣(新潟大学人文学部)

保定陸軍軍官学校(以下、保定軍校)とは、1912年に開学した将来の陸軍将校を養成するための学校である。この保定軍校は、清末から行われた軍制改革の結果、袁世凱が開学した軍校である。本論文では、保定軍校に焦点をあて、清末の洋務運動から新軍編制、中華民国北京政府までの軍事に注目し、連続性を伴う研究を行うことを目的とした。こうした研究は、これまで管見の限り、ほとんど見られない。こうしたことから、中華民国史研究の課題に取り組むことと同時に、保定の歴史的重要性を再確認していく。

第一章では、保定市の地理及び歴史について概括した。中国河北省保定市は、河北省中部において、北は北京市と張家口市、東は廊坊市と滄州市、南は石家荘市と衡水市、西部は山西省と隣り合った場所に位置している。保定は、古くから国境や辺境となることが多く、軍事的要所となっていた。元代になると、首都の大都(現在の北京)を安定させる、という意味の「保定路」と名付けられた。後に、保定は直隷省都に定められ、直隷総督が派遣される場所となる。清末の直隷総督には、外交や洋務運動に関わる多くの権限が集中するようになっていた。袁世凱も、この直隷総督となった1人である。

第二章では、軍制改革及び新軍編制に深く関わった袁世凱の一生を追い、また清末から中華民国初期までに行われた、洋務運動から新軍編制までを一つの流れとしてまとめ、その中の軍制改革として開学された各種軍事学堂について検討した。袁世凱は、幼くして武官として出世することを決意し、派遣された朝鮮では親軍の組織を行った。帰国後、袁世凱は、光緒帝から新軍の組織を任される。袁世凱が編成した新軍は、それまでに曾国藩や李鴻章の軍隊とは異なった強力な新軍であった。新軍の組織と同時に、袁世凱は各種軍事学堂の開学も行っていた。彼は、こうした軍事学校の卒業生をもとに、新軍をさらに拡充させていった。こうして開学された軍事学堂の一つが保定軍校であった。

第三章では、保定軍校の実態と開学期間中を総括し、保定軍校が後に与えた影響について考察した。袁世凱の死去した1916年を区切りとして、開学期間を2つの分け、それぞれに保定軍校の変遷をまとめた。開学前期は、保定軍校の開学期間の中でも、比較的平穏な時期であった。後期の保定軍校は、校舎の焼失によって1年間の休校を余議なくされる。学生の学校再開運動によって、再び授業を始めるものの、経費の問題及び直系軍閥の解体によって閉校した。この保定軍校は、1912年から1923年の11年間に開学され、その後の中国軍隊や社会に大きな影響を及ぼした。卒業生による、中国社会及び後に開学される黄埔軍校への影響が大きいことが、この理由である。第1期卒業の楊傑、第3期卒業の張治中、第6期卒業の鄧演達、第8期卒業の陳誠の著名な4人を取り上げ、保定軍校の卒業生が具体的にどのような進路を選び、影響力を持ったのかを検討した。

以上、古代から清朝にかけての保定の姿を概括することに加え、保定軍校の姿を明らかにすることで、中華民国成立後も保定が軍事的要地であり、影響力を持っていたことが分かった。しかし、筆者の力不足によって保定軍校の規模、独自性を明確にするには至っておらず、また資料も不足している。今後は保定軍校についての資料や日本陸軍の資料を用いて、より理解を深めていきたいと考える。

2012.3.5


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