新潟大学人文学部

植民地期朝鮮における朝鮮総督府の神社政策について

矢川 博基(新潟大学人文学部)

朝鮮において建立された神社は、明治維新後、朝鮮に渡航した日本人居留民がその居住地に、日本の神をまつる神社を建てたことにはじまる。総督府は、1915年に神社制度を発足させ、朝鮮における神社・神祠(小規模な神社)の開設・運営に介入することで、朝鮮民衆を管理下に置いた。本論文では、植民地期朝鮮のなかでとくに神社・神祠が積極的に建立された全羅南道に焦点をあて、地域社会における神社・神祠の建立の実態について考察した。

第1章では、植民地期朝鮮における神社・神祠を概観し、総督府の神社政策が展開されていく過程を明らかにした。総督府は、日本人居留民による神社の濫設を防ぐために1915年に「神社寺院規則」、1917年に「神祠ニ関スル件」を制定し、新たな神社・神祠を建立する際に総督府の許可が必要となった。やがて、1925年に朝鮮神宮が創建され、36年に神社制度が改正された。また、1938年から朝鮮の各面に1神祠を置くという「1面1神祠政策」が実施されたことで、神社・神祠の数が急激に増加し、神社政策は本格化した。

第2章では、全羅南道の神社・神祠数が増加していく過程と、その過程において誰が主体となってそれらを建立したのかを考察した。全羅南道では、1910年〜40年代前半にかけて10の神社が建立された。これらのうち、小鹿島神社を除く9社が建立された地域は、いずれも全羅南道における政治的・経済的中心地で、人口も多く、とくに日本人が多数居住している地域であった。それに対し、小鹿島神社が建立された地域は政治的・経済的中心地ではなく、ハンセン病患者を強制的に隔離するための病棟がつくられた地域であった。また、全羅南道では、1938年6月末から神祠を増設していく方針をとっており、この時期に入って、従来日本人中心だった神祠建立の許可申請を朝鮮人もするようになった。そうした朝鮮人のほとんどは職業が面長となっており、朝鮮人の面長が総督府の指示に基づいて、面民を動員して神祠を設置したものであるということが推測できた。

以上のように、総督府の神社政策は、神社制度の導入、朝鮮神宮の創建、神社制度改正と1面1神祠による政策の本格化という過程をたどった。とくに、1938年からの1面1神祠政策の実施によって、神社・神祠は急激な増加をみせるようになったが、その増加の大半は、全羅南道においてであった。全羅南道の神社については、一貫して日本人が主体となって建立したのに対し、神祠については、「1面1神祠政策」を機に、その建立の主体が日本人から朝鮮人へと大きく入れ替わっていったといえるだろう。

2012.3.2


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