新潟大学人文学部卒論(アジア文化履修コース)

満洲映画協会の宣伝活動について

畑井 裕美(新潟大学人文学部)

満洲映画協会(以下、満映)は、映画による政治宣伝を行うことを目的として、南満洲鉄道株式会社(以下、満鉄)と満洲国との合同出資によって、1937年に設立された国策映画会社である。本論文では、満洲国建国以前から、満映が解体するまでの間、中国東北地域において、映画による広報宣伝活動は如何にして行われてきたのかを考察し、満洲における広報政策において、満映はどのような位置付けがなされていたのか明らかにした。さらに、当時満映が直接編集・出版に関わっていた雑誌『満洲映画』の内容分析を行い、満映が、雑誌というメディアを通してどのような宣伝活動を行ってきたのか検討した。

第一章では、満鉄映画班と弘法処の活動、満映が設立されるに至った経緯、そして、満映の活動について取り上げ、満洲国における映画による広報宣伝活動について検討した。当時、満洲国内において、映画を利用した広報宣伝活動は、1923年に満鉄内に設置された満鉄映画班と、1932年に満洲国政府が国務院に設置した弘法処とが中心となって行っていた。しかし、映画の委託製作や、映画による広報宣伝などの事業を統合した宣伝機関を設立することが、満洲国政府にとって喫緊の課題となると、1933年より、満洲国政府関係者が中心となって、満洲国に映画統制機構を作るための具体的な話し合いを進めていくこととなった。その後、数年にわたる準備機関を経て、1937年8月、満映は正式に発足する。満映は、1945年に組織が解体するまでの間、映画製作のみならず、映画フィルムの輸出入および配給の統制を行い、満洲国内の配給を一元的に管理した。

第二章では、雑誌『満洲映画』の概要について述べた。『満洲映画』は、1937年12月に創刊された、満洲国内で発行された唯一の映画雑誌であり、映画による文化政策の推進力を補強する、いわば満映のスポークスマンとしての役割を担っていた。

さらに第二章では、『満洲映画』の記事を取り上げ、その記事内容の分析を行った。『満洲映画』創刊当時の満映は、アメリカ映画と上海映画の輸入が途絶えたことで、満映にとって重要な資金源であった、映画の配給収入が激減するという危機に直面していた。この時期の『満洲映画』には、満映の配給収入に言及した記事が多くみられ、基本的には満洲国政府の意向を容認する立場をとっていた。また、甘粕正彦が満映の2代目理事長に就任した1939年以降、満映では、甘粕による満映の機構改革の一環として、劇映画の製作の際、監督や脚本家に中国人を起用する動きが見られるようになった。この時期の『満洲映画』では、満映の映画製作方針に言及した記事が多く見られた。

以上、本論文では、満鉄映画班と弘法処、そして満映による映画の広報活動に注目した上で、雑誌『満洲映画』の内容分析を行った。満映設立以前の中国東北地域では、満鉄映画班や弘法処が中心となって、映画による広報宣伝を行っていたが、1937年の満映設立により、これまで広報宣伝の中心的な実施機関であった弘報処は、広報宣伝機関の管理機関としてその役割を変化させ、それと同時に、満映が広報実施機関としての役割を担うこととなった。雑誌『満洲映画』創刊時の満映は、配給収入の問題に直面しており、このことに言及した記事が多く見られた。また、甘粕正彦が満映の2代目理事長に就任した頃の『満洲映画』の記事には、これまでの満映による映画製作方針に対して、中国人の嗜好に合った映画作りをするには、満洲をよりよく理解することが必要だとする論調が多く見受けられるようになった。

2013.2.11


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