新潟大学人文学部卒論(アジア文化履修コース)

蜀による北伐の意義について

祢津 詩央里(新潟大学人文学部)

漢室復興を掲げて蜀を建国した劉備は、魏の曹丕を簒奪者とみなし帝位に就くが、漢室復興を果たすことなく死去する。その後、劉備の志は政権首班者となった諸葛亮によって受け継がれ、対魏戦争である北伐が開始された。この北伐は、それ自体が蜀を正統化するものであり、故に国力を消費しながら国の滅亡まで続けられる程、蜀では重視された。しかし先行研究では、蜀政権各首班期にわけて北伐を論じているものが多く、その目的についても疑問に思う点があった。よって本稿では、諸葛亮の死に関わらず北伐を総合的に取り上げ、兵数や進軍ルート等北伐全体の整理を通じてその目的や意義について考察し、蜀の本質に少しでも迫ることを目的とした。

第一章では、蜀魏の北伐直前までの動向を概観し、北伐敢行の理由について論じた。劉備は、前漢景帝の末裔であると称しながら各地を転々とし、諸葛亮を迎え入れた。諸葛亮は、荊州・益州を拠点とし、西方南方の異民族及び呉と手を結び、秦川・荊州の両面から魏を攻める策を提示する。劉備は漢室復興を掲げて策を実行に移していくが、完遂することなく亡くなった。その後蜀の全権力を握った諸葛亮は、戦の準備を整えると、227年3月漢中へ駐屯し北伐を開始した。

第二章では、諸葛亮による北伐の動きについて論じた後、その目的と意義について考察した。北伐の出兵先が長安・洛陽とは逆の隴西・涼州方面であることについて、益州土着勢力と外来勢力の対立・魏蜀間の国力差・魏の涼州支配の脆弱さから、諸葛亮は、魏を討伐することが不可能だと考えたうえで、漢室復興を建前としながら、実際は交易利益によって蜀を強化するため、基盤を固めながら西域への交通を開こうとしていたのだと結論付けた。 第三章では諸葛亮没後の北伐について、蔣琬・費褘・姜維の各首班期にわけて論じた後、その目的と意義について考察した。蔣琬首班期は、諸葛亮の北伐を継承して隴西・涼州方面に出兵し、北伐計画によって漢室復興を実行すると見せかけ、実際は国内をまとめ蜀政権を保つために北伐を行ったと考えた。費褘・姜維首班期は、費褘が北伐に消極的であり、国及び政権を保持しようとしていたことを明らかにした。姜維首班期は、諸葛亮の北伐のほとんどを受け継いだものが姜維の北伐だと考えた。

第四章では、先ず各首班期の北伐を比較し、没後の北伐は諸葛亮の北伐を受け継いで行われたことを明らかにした後、北伐全体の目的は西域との交通を開くことだったと結論付けた。次に、北伐に対する人々の反対・批判と期待から、人々の北伐に対する理解とその位置付けについて考察した。益州土着勢力は、自領・自身の保護を満たす北伐から、自領を消耗する北伐という理解に変化し、流寓勢力にとっての北伐は、ただ国力を消費する無謀な戦であった。また、ここから北伐の目的を理解していた人物について考察した後、その理解が異なっていたために、北伐軍の構成員も変移し、結果的に人々の北伐に対する関心や期待も離れていったと考えた。最後に、北伐における蜀とは、北伐の目的を介して何とかまとまりを成していた存在であったと結論付けた。

以上、北伐は蜀にとって必要不可欠なものであった一方、結果的に蜀の存在を追い詰めるものでもあったことを明らかにした。今後、魏及び涼州・西域異民族の視点からも北伐を考えることで、諸葛亮と異民族の関係等更なる問題が解決され、蜀という国についてより深く迫ることが可能になると考える。

2013.2.17


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