新潟大学人文学部卒論(アジア文化履修コース)

抗日戦争期における中間党派の動向
―鄒韜奮を中心に―

清野 愛(新潟大学人文学部)

現在の中華人民共和国では、建国を指導した共産党が絶大な権力を持ち、他の政党が国家運営に及ぼす影響は小さいように感じられる。しかし、抗日戦争から中華人民共和国成立へ至る道程において、共産党と国民党のどちらにも属さない「中間党派」と呼ばれる人々が、共産党と国民党の施策や、世論形成に対して大きな影響力を持っていた。中間党派と呼ばれる人々は多数存在するが、筆者は鄒韜奮(1895‐1944)に関心を持った。鄒韜奮は、中間党派の一つである救国会の中心人物であるとともに、ジャーナリストとしての功績も大きく、1925年に創刊し1926年に主編に就任した週刊誌『生活』を皮切りに数々の雑誌を発行した。卒業論文では、鄒韜奮がジャーナリストとなるまでの経歴ならびに、満州事変を境に彼の主張は変化したのかを明らかにすることを目的とした。

第I章では、鄒韜奮がジャーナリストとなるまでの経歴を追った。鄒韜奮は、没落した官僚の家に生まれ、学費の工面に苦労しながら学生生活を送った。鄒韜奮は、新聞記者になるという夢を幼いころから抱いており、1923年に黄炎培が代表を務める中華職業教育社に入社した。中華職業教育社は、1925年に週刊誌『生活』を創刊し、1926年には鄒韜奮が主編に就任した。鄒韜奮は、週刊誌『生活』に読者からの投書とそれに対する回答を掲載し、読者の要望が誌面に反映されるよう努力した。

第II章では、週刊誌『生活』が廃刊処分に追い込まれるまでや、生活書店が成立するまでの過程に焦点を当てた。週刊誌『生活』は、国民党からの弾圧により、1933年12月8日に廃刊処分を下された。また、これ以前には、週刊誌『生活』の発行を担う生活書店を、中華職業教育社から独立させる建議が胡愈之から提出され、1933年7月8日には、生活書店が成立した。このことは、鄒韜奮がジャーナリストとして独立した象徴であったと言える。

第III章では、鄒韜奮が抗日活動を活発に行うことによって国民政府から弾圧を受け、海外生活を余儀なくされた時期について述べた。鄒韜奮は、1933年7月14日から1935年8月27日にかけて欧米へ渡航した。この渡航によって、鄒韜奮は資本主義の限界や矛盾を認識し、社会主義の優越性を意識した。

卒業論文では、鄒韜奮の経歴を追うとともに、彼の思想を明らかにしようと試みた。鄒韜奮の主張は、満州事変を契機に転換したとする研究が多い。しかしながら、鄒韜奮にとって、抗日救国運動を推進することと、中国を発展へ導く途を模索することは同等の重要性を持つ使命であり、同時に取り組むべき課題でもあった。鄒韜奮は、中国の前途に対する憂慮を以前から主張しており、それが満州事変を契機に表出したと解釈するのが、彼の思想を正確に捉えることへつながると考える。

2013.2.12


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