新潟大学人文学部卒論(アジア文化履修コース)

清末、中国人の日本留学に関する研究

嶋川 望美(新潟大学人文学部)

清末に開始された留学は洋務運動のなかで展開し、また、日本留学は「変法自強運動」のなかで展開した。

第一章では、はじめに、洋務運動の発生から「変法自強運動」へと転換するまでを概観した。続いて、洋務運動期に洋務派官僚らによって行われた西洋式の学堂設立が、語学を中心とした教授から天文、数学などの学問、軍事、造船などの技術の教授と展開して行ったことを明らかにした。学堂である程度の知識が養われると、欧米への留学生派遣へと展開して行った。また、1870年代に公使館の設立が行われたことを契機として、日本への遊歴官の派遣と、日本語の通訳の育成を目的とした留学生の派遣が行われるようになったが、回数や規模は極めて小さなものであった。洋務派官僚らにとって当時の日本は学ぶことを目的に留学生を派遣する対象ではなく、明治維新の成果を参照し洋務運動推進の根拠としての位置づけがされていた。

第二章では、日清戦争敗北を契機として、継続して留学生の派遣が行われた1896年以降の日本留学について、その変遷を辿った。1896年に、清政府より13名の留学生が派遣され、以降、各省ごとに留学生が派遣されるようになった。さらに、私費で留学生が日本に渡るようになり、日本留学は隆盛へと至った。1902年に、留学生と駐日公使の衝突が起こった。この事件以降、清政府は留日学生が革命へ傾倒することを憂慮し、次第に留学生に対する管理や取り締まりを強化していくこととなった。

第三章では、清国人の日本留学と清国国内の教育状況の関連性について考察した。清は1904年に新たな学制を制定し、科挙の廃止と国内に学堂を設立することを規定した。科挙の廃止によって官吏登用の道を留学に求めたことや、教員の不足を日本の師範学校に留学することで補おうとしたこと、当時国内に十分な数の学堂を設立する力がなかったことなどにより、1905年には留日学生数が大幅に増加することとなった。留学生の増加は、留学の質を落とし、1906年には日本留学始まって以来初めて留学制限が設けられた。さらに、清政府は一部の官費支給の停止など日本留学における政策の見直しを行い、同時に国内の教育推進をはかっていった。こうして1907年以降、留学生数は減少して行き、1909年には、ピーク時の半数である4000人となり、日本留学の質の向上も見られるようになっていった。

洋務運動期に開始された留学生派遣とは異なり、継続的かつ長期的に行われた日本留学では、留学開始時には規則が定められることなく行われ、留学生派遣を行う過程で各種章程や規則を制定し、留学政策を確立させていった。

2013.2.12


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